Enmeiji延命寺

天竺ロック vol.8

 

vol.8
-あしたのジョーとニューミュージックマガジン、そしてビートポップスの頃~その1~-

 

- 河野亮仙-

 

 天竺ロック情報を補うわけではないが、当時の音楽状況を書いてみたい。私たちが中学校に入った1966年はビートルズ来日の年。入学間もない6月のこと。コンサートなんて行ったこともないのでチケットを求める努力もしなかった、できなかった。女子高生らに対する過剰な警備は安保闘争の準備だったといわれる。

 同世代の渋谷陽一が、よく、当時ビートルズを聴いてる人は少なかったと書いているがとんでもない。よほど遅れた学校にいたんだなあと思う。確かに、文化祭などでは、フォーク・ソング、ピーター・ポール&マリーやジョーン・バエズ、ブラザーズ・フォーを歌っている先輩が多かった。

 エレキは不良の音楽とされ、エレキ禁止令も出ていた。しかし、心をとらえていたのはビードルズやローリングストーンズ、アニマルズ、ホリーズなどである。

 リバプール・サウンドといわれたイギリスのグループの格好を模したグループ・サウンズが日本ではブームになる。スパイダース、ブルーコメッツ、タイガース、テンプターズです。若大将加山雄三もランチャーズを率いて人気があった。

 雑誌はおそらく流行歌手や映画俳優を扱った「明星」「平凡」の全盛時代だろう。もちろんわたしは読まなかった。洋楽では、よりミーハー向けの星加ルミ子編集長の「ミュージックライフ」、桜井ユタカがリズム・アンド・ブルースをとりあげて、ややマニアックな木崎義二編集長の「ティーンビート」があった。名前からしてティーンエージャー向けというか、ロックは子供の音楽だった。いまやプレイヤーも聴く方もそのまま年を取って爺さんの音楽となってしまった。

 当時、1966年4月から70年1月まで、土曜の午後に「ビートポップス」という番組があった。「ソウルトレイン」の日本版みたいな番組で、大橋巨泉が司会、星加ルミ子や木崎義二が解説?藤村俊二がディスコの振り付けをしていました。もっとも、当時はゴーゴー喫茶、モンキーダンスといったか。杉本エマとかハーフのタレントが踊っていました。 ミュージック・クリップの走りみたいなものも紹介されていたと思う。外タレは「アンディ・ウィリアムズ・ショー」とか、たまに「ミュージックフェア」とか「夜のヒットスタジオ」に出る程度でなかなかお目にかかれなかった。

 巨泉はジャズ評論家でジャズも歌ったようですが、時々出てきた本田俊夫はジャズのベーシストだったのでその解説が興味深かったです。サックス奏者本多俊之のお父さんです。その時代のヒットソングは「僕たちの洋楽ヒット」Vol.1と2で聴けます。巷ではパックインミュージックなどの深夜放送が流行ってましたが、わたしが聞いていたのはアメリカントップ40などです。ウルフマンジャックとかいうディスクジョッキーがいたな。

 ビートルズもレナード・バーンステインとか武満徹とかごく一部の偏見のない音楽家は評価していたが、ビートルズに神聖な日本武道館を使わせるなんてとんでもないという意見の方が主流だった。

 ジャズでは「スイングジャーナル」があり、そこでクリームを取り上げたかどうか記憶は定かでないが、「クリームの素晴らしき世界」ライブ盤の「クロスロード」や「スプーンフル」を聴いて、大御所の油井正一が「へたなジャズより面白い」といった言葉が評判になった。中村とうように続いて、ピットイン創成期に関わった相倉久人も、後にジャズからロック評論に乗り出す。二人とも喧嘩というか論争好きでした。

 今ではそういう考え方をする人は少なくなったかもしれないが、クラシック音楽がヒエラルキーの一番上で、次にジャズ、ポピュラー音楽は下、歌謡曲は下々、演歌はゲゲゲの下というような考え方だ。

 インド音楽は、哲学的、宇宙論的な考え方があり、西洋のクラシックより古いので、民族音楽の中でもランクは高かったのではないか。

 インドは英国の植民地だったので、インド人が多い。英国生まれでインドで教育を受け、シタールを学んだ音楽学者ナズィル・ジェラズボーイが、ロンドン大学にいてインド音楽、シタールを教えていた。その弟子にビッグ・ジム・サリヴァンというギタリストがいた。スタジオ・ミュージシャンで数多くのヒットソングでギターを弾き、ジミー・ペイジやリッチー・ブラックモアを指導した。レッドツェッペリンのインド趣味もこの辺に由来するのだろう。

 「シタール・ビート」と題する彼のCDが手元にある。これは67年に出た「シタール・ア・ゴーゴー」というお気楽なタイトルで出したレコードに、4曲追加してCDに仕立てたもの。なんと、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズという後のツェッペリン・メンバーにジョン・マクラフリンまで参加している。

 ジャズ界でもピカイチの技巧派であるマクラフリンが、後にザーキル・フセインやこの4月に来日したヴィナーヤクラム、L.シャンカルとフュージョンバンド、シャクティを結成したのはご存じの通り。また、ともにシュリー・チンモイ(シュリー・オーロビンド・アシュラム出身)の弟子であるサンタナと「魂の兄弟たち」というアルバムを出している。

 4月16日に星川さんはヴィナーヤクラムの来日コンサートに出かけ、お別れをすることになってしまった。

 星川さんは88年インド祭に来日したザーキル・フセイン、ヴィナーヤクラム、ハリシャンカルらのパーカッション・アンサンブルを「超絶のリズム」として録音している。ザーキルは父のアラ・ラカと比べると身体が細かったからか、左手の音の強さ、太さを気にして、もっと上げろと指示していた。しかし、星川さんは音のバランスを考えて、上げたふりをしてそのまま録音していた。皆さん、結構ザーキルに振り回されている。

 話を戻すと、ビートルズの「ノルウェイの森」でジョージがシタールを弾いたことはよく知られているが、ストーンズも、トラフィックもシタールを取り入れたり、インド音楽の影響を受けている。

 ビートルズやストーンズの面々はマヘリシ・マヘシ・ヨギのいるヒマラヤのふもとのアシュラムまで出かけている。しかし、ヨギがミック・ジャガーの恋人マリアンヌ・フェイスフルに手を出したとかで総スカンを食う。


ニューミュージックマガジンの頃

 イギリスのポピュラー音楽界は、アメリカから入ってきたフォーク・ブルース、ロックンロール、リズム・アンド・ブルースも一緒にジャズ系のプレイヤーが演奏していて、その中にジャック・ブルースもジンジャー・ベイカーもいた。二人はクリームでロックをやってるつもりはなかった、ジャズの延長としてやっていたようだ。

 さて、ジャズ評論やラテンの世界から飛び出した中村とうようは、1969年4月に「ニューミュージックマガジン」を創刊します。3月20日頃の発売です。ニューロックとリズム&ブルースの専門マガジンという触れ込みでした。150円くらいでカラーページもない薄い冊子です。

 いつも発売日前日の夜に自転車で北浦和駅前の金港堂まで走って買ってました。投書も一、二回載ったのですが、それらは母親がぜーんぶ捨ててしまいました。

 NMM主催でその年の11月から新譜レコード試聴会を銀座のヤマハでやってました。友達を誘ってよく行ってました。同じくNMM主催でロック・フェスティバルを始め、70年に行われた第三回の5月5日には、第一部がモンタレー・ポップ・フェスティバルの映画の上映、第二部が日本のロックバンドのライブということで、サンケイホールにおいて行われました。

 これ、行ったと思います。半世紀も前のことで記憶も曖昧ですが、ジェファーソンエアプレインが映っているとき、ノートを破って二階席から紙飛行機を飛ばしたような気がする。

 また、その頃からブルース愛好会に参加していました。渋谷の喫茶店でやって古いレコードをかけていたと思います。ロバート・ジョンソンやブラインド・ウィリー・ジョンソンの伝説に目を輝かして聴いていました。

 当時、慶応大学生の日暮泰文さんと鈴木啓志さんが中心となり、「The Blues」というガリ版刷りの雑誌を発行していました。それが発展して今はCD付きの「ブルース&ソウル・レコーズ」として続き、CD発売元のP-VINEはブルースとソウル・ファンクの世界的なレーベルになっているのだからたいしたものです。

 渋谷・道玄坂辺りにあったロック喫茶ブラックホークの行き帰りにヤマハで輸入盤のロバート・ジョンソンを見つけたのは高一の頃でしょうか。新宿のレコード店オザワでB.B.キングやジョン・リー・フッカーの輸入盤は珍しくなかったのですが、ほんとかよと驚喜したものです。キングレコードがようやく68年、ブラックパワーシリーズと銘打ってブルーズウェイレーベルのB.B.キングなどを発売しました。

 ジャズブルースでないブルースは、フォークブルース、あるいは、フォークソングとしてレッドベリーなどがフォークリヴァイバルの中で紹介されている。ピート・シーガーやウディ・ガスリーが左翼的な政治志向の歌を歌った。中村とうようはそうしたムーブメントの紹介者であった。

 古いブルースはその後、レコード三枚組の{RCAブルースの古典}(1971年発売)が出て、日本でもっと古いブルースが聴けるようになりました。これはあっという間に売り切れて再販され、今ではCD二枚組になっています。

 ロックは66年秋のビートルズ「リヴォルヴァー」で一変します。翌67年にクリームやジミ・ヘンドリックス・エキスペリエンスが出てきます。アート・ロックとかニューロックとか呼ばれるようになりました。

 1967年はモンタレー・ポップ・フェスティバルの年。フラーワーチルドレン真っ盛りの頃、オーティス・レディングやMG’sはダークスーツにネクタイで出演しましたが、お客は裸に近いような状態だったので南部の田舎の人間にとってウェストコーストは異文化だったようです。

 モンタレーや69年ウッドストックに出演したラヴィ・シャンカルもこの頃からよく知られるようになり、わたしも中三の頃、朝日講堂辺りでシャンカルを聴いたと思います。

 ジョージ・ハリソンもコルトレーンもラヴィ・シャンカルに傾倒する。後にジョージはバングラデシュ独立支援コンサートを呼びかけ、また、バクティヴェーダーンタのハリクリシュナ教団に多額の寄付をするなど関わりが深い。

 同67年、カシアス・クレイは兵役を拒否しました。マーチン・ルーサー・キングの暗殺は68年。人種差別は強かったです。

 ベトナム戦争も中国の紅衛兵も我々には遠い世界の出来事で、日本を震撼させたのは68年5月のライフル魔金嬉老の立てこもり事件です。朝鮮人差別を訴えていました。

 さてさて、ニューミュージックマガジンの話のはずでした。神田の古本屋で見つけて古いのを何冊か買いました。今井祥智とか和田誠とか加藤和彦とか意外な人が書いてます。 もちろん、福田一郎やソウル・ブルース系の人なども。画期的だったのはスイングジャーナルのように星五つの評価ではなくて、学校の答案のように百点満点で評価したことです。ごまかさないように足かせを付けたのです。

 レコードを買うときには、こいつのいうことは当てにならないとか、点数が辛いとか考えながら参考にしました。レコード一枚2000円くらいですから毎月は買えるわけではありません。学校のみんなで交換して聴きました。

 しかし、今あらためて読んでみると、あ、こりゃ全然当てにならないと思いました。まず、情報がない中で苦労して書いてるのがみえみえだし、新しい音楽に理解が追いついていない人も少なくない。今になってみると名盤に失礼だぞという感じです。それくらいこの三、四年のロックの変化は凄かった。また、激動の世の中でした。

 6月のモンタレー・ポップ・フェスティバル出演の後、オーティス・レディングは67年12月に飛行機事故で亡くなる。同フェスティバルでジミ・ヘンドリックスを紹介したローリングストーンズのブライアン・ジョーンズは、69年7月謎の死を遂げる。70年9月にジミ・ヘンドリックスは嘔吐物を喉につまらせ窒息死。

 モンタレーで絶賛されたジャニス・ジョプリンも同年10月ヘロインの多量摂取で死亡。同じくモンタレーとウッドストックに出演したキャンドヒートのアル・ウィルソンも70年9月に睡眠薬多量摂取で死亡。71年7月、ドアーズのジム・モリソンは入浴中の心臓発作で死亡。活動を停止していたビートルズは71年に解散。

 フリージャズの巨匠ジョン・コルトレーンは60年代初頭からラヴィ・シャンカルに惹かれ、彼が公演等でアメリカを訪れたときにはホテルまで行って教えを請うたという。65年に生まれた息子にはラヴィの名を授けた。今やトップ・テナーの一人だ。

 その年、「アセンション」「OM」を発表。シャンカルには「シャーンティ(寂静)」がないと酷評される。インドの古典音楽奏者にアフリカの咆哮は理解できないはずだ。

 67年7月来日公演。コルトレーンはその頃カルフォルニアにスタジオを構え、シャンカルからレッスンを受けるつもりだった。しかし、68年7月肝臓ガンで急逝。星川さんと一緒じゃないか。しかも、40歳だ。

 来日時にはクルミやナッツ、果物や菓子を食べていたという。星川さんも食が細りナッツを食べていたがそれも喉を通りにくくなってビスケットと紅茶、マンゴーなどを食べていたという。

 NHKのFMで65年から「世界の民俗音楽」、72年から改題して「世界の民族音楽」で語っていた小泉文夫先生は83年に56歳、肝不全で亡くなられている。

 ちなみに、あしたのジョーの連載は少年マガジン1968年1月1日号(前月15日発売)から73年5月まで。真っ白な灰になったジョーが生きていたのか死んだのか物語の中では語られていない。