精霊と女性の国 北タイ
22 「一緒に食べる関係」 |
大家のメー・カイには6人の息子と3人の娘があった。夫はすでに亡く、子どもたちのうち上の7人は、軍隊に入っている三男を除いては結婚して世帯をもち、末の二人の息子(28歳と26歳)と孫娘(20歳)が一緒に住んでいた。
次男のパン(37歳)は北の山岳地方で教師をしていたが、3週間くらいの間隔で妻子を伴い、ランパーンで買った食料をバンに積んで、母の家に来た。またランパーンで看護婦をしている次女のカイムックも、2週間に一度ぐらいの割合で来た。
彼女はいつも夕方のシーロー(乗り合いバス)に乗ってやって来て、明朝早く敷地内に生えている草(北タイの人々はこの草をスープやソム・タムの付け合わせに食べる)をのんびり摘んでいる姿を見かけたかと思うと、私が話しかけようと思ったときにはもういなくなっているのが常だった。朝のシーローに乗ってとんぼ返りにランパーンに帰るのである。
このパンとカイムックが定期的に母屋の米倉(10の図参照のこと)の米をもらいにきていたことがわかったのは、私たちがここの家に住み始めてかなり経ってからのことである。近所に住む長女のチャンは、毎日炊く米を米倉に取りにきていた。
このように同じ米倉の米を食べる関係を、北タイの人々は「キン・ドゥアイ・カン」(一緒に食べる)と言う。同じ家に住んでいる人々はふつうキン・ドゥアイ・カンであるが、キン・ドゥアイ・カンは世帯を超えて広がっている。
北タイの家族周期の中で、娘夫婦は親の家から次第に敷地内の離れのような家、そして別の家へと空間的に独立していくが(4参照、息子夫婦の場合もあることについては5参照のこと)、経済的な独立はこれと並行して、けれどもずれを伴いながら実現されていく。夫婦は親と同居している間はふつう親の農地で働き、同じ米倉の米を食べているが、その後米倉を別に建てることもあるし、農地を分割したり、別に手に入れた農地で耕作したりすることもある。
人々は同じ米倉の米を食べる人々を「キン・ドゥアイ・カン」と言うように、同じ田で働く人々を「ナー・ディオ・カン」(田が同じ)と呼ぶ。チャンと三女のノンヤオは母の田で働き、母と「ナー・ディオ・カン」であった。
北タイの人々にとって、家族の意識は同一世帯を超えて「キン・ドゥアイ・カン」、「ナー・ディオ・カン」で覆われる範囲に広がっている。言い換えれば自己の拡がりの一つのレベルとしての家族‐それは災厄を共有し、ブンを共有する人々であった(21・22参照)‐は、「キン・ドゥアイ・カン」と「ナー・ディオ・カン」という言葉で表現される人間関係の緩やかな重なりからなり、「幸福と災厄の共同体」としての家族もまた、幸福や災厄の脈絡に応じてこの中で変化するのである。