精霊と女性の国 北タイ
19 チャンカーン「身体に集積された行為」 |
けれども自己の拡がりの一つのレベルとしての家族は、北タイにも存在する。「自己」の範囲は個人の物理的な身体に限られるものではなく、場合によって物理的身体の外界との境界である皮膚を超えて拡がる。これはほとんどの文化において見られる現象である。
私たちの社会でも例えば羞恥の感情は、個人としての自分の行為に対してのみ感じるのではなく、「身内」全体がもつものとして感じられてきた。こうしたとき「自己」は、あるいは「自己の身体」は羞恥が共有される「身内」の範囲に拡がっていると考えられる。この「自己の拡がり」は時代に応じて、地域によって、そしてそれが発生する脈絡に応じて伸縮したり、いくつかのレベルをもっていたりする。羞恥もかつてのように親族と姻戚関係を含めた「身内」全体に共有されるのではなく、現代社会では家族に限られるようになったといえるかもしれないし、また都会に住む人々の間での方が地方よりも共有される範囲が小さいといえるかもしれない。きわめて日本的な社会概念である「身内」の範囲もまた時代と地域と脈絡によって変化する。死の穢れを共有する服喪の習慣は、現代日本社会ではほとんど年賀に関する喪中の慣行に残されるばかりになったが、これも穢れを共有する一つの身体的存在が浮かび上がってくる機会として理解できる。
そういう意味で「自己の拡がり」にはいくつかのレベルがあるが、多くの社会で「家族」はそのもっとも基本的な拡がりを構成しているといえる。
北タイで「自己」というものがどのように考えられているかを示す言葉の一つとして、「チャンカーン」という言葉がある。チャンカーンは仏教テキストにあるサンスクリット語「サムスカーラ」に由来する言葉である。サムスカーラは人間の存在を構成する5要素の一つとされ、行為と意志を意味する。それは中部タイでは「サンカーン」という言葉に変わり、身体、存在、あるいは身体と魂を構成する全構成要素の集合を意味している。北タイで調査を行ったリチャード・デイヴィスはサンカーンを経験と訳している。
チャンカーンという言葉は日常ではふつう使われず、新年の祭りの最初の日、正確には古い年の最後の日に関連してのみ用いられる。その日は「チャンカーンが流れ去る日」と呼ばれ、ランパーンではある人々は早朝に歳の数だけ鉄砲を撃って「チャンカーンを撃つ」。チャンカーンは身体にあるが目には見えないとされ、身体に集積された古い行為として理解するのが適切であると考えられる。北タイでは年の最後の日は1年の間に身体に蓄積された古い行為が流れ去る日であり、この日の早朝にそれを撃つのである。そして夕方、村のすべての家族は花と線香、清めの水と清めの水に浸した蒸したもち米のセットを持って、儀礼専門家の家の敷地内の一角、母系出自集団の精霊の祭壇、大木の元にあるピー・サオ・バーン「村の精霊」の祭壇に供える。人々は年の終わりに、その年に集積された古い行為を流して「身体」を清めなければならないのであるが、その「古い行為が集積する身体」は個人だけでなく、家族、親族集団、村の範囲に拡がり、それらは自己の拡がりのそれぞれのレベルとして自己を型取るのである。