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延命寺 インディカ舞 レヴュー・Part.2

 


【レヴュー・Part.2

 

池上直哉写真展

 先日、友人の池上直哉さんの写真展「舞踏家・大野一雄の軌跡」(6月24日まで)で、はじめて大野師にお目にかかり、またその舞踏も拝見しました。写真展を構成したのは、やはり友人の村山守さんです。
 神奈川県民ホール第五展示室の広い空間を活かして、ディジタル時代の写真展を演出しました。一時代を画す、歴史的な写真展じゃないでしょうか。
CDーROM写真集も出ています。面白いですよ。膨大な情報が詰め込まれてますが、その前提となる写真を撮り続けた大野一雄追っかけマン、池上さんの徹底した取材?に驚きます。これは「仕事」ではなくて「追っかけ」なんだそうです。
さて、ひょっとすると皆さんは、私をインド舞踊の研究家だと思っているかもしれませんが、決して、そういうわけではありません。最初は、写真を撮るついでに?インド舞踊を見ていたのかもしれません。
 また、インド舞踊自体の見方もまた、インド舞踊をやっている人とか、舞踊ファンとは、見ているところが違うと思います。
 強いていえば、武術を見るようにインド舞踊を見ています。技術的、演技的な側面には、あまり興味がありません。重心がきちんと取れているか、足の運びはどうか、意識をどう持っていくのか、どう飛ばしているかというようなことを見ています。


自然と一体となる舞踏

 舞踏などほとんど見たことのない私が足を運んだのもそこです。さすがに、大野師の動きはどの瞬間を切り取っても絵になっています。意識と動きが一致している、呼吸によってそれがコントロールされているからです。
 後で、生徒さんや写真家にどこで息をしているか分かりますかと聞いたら、やはり読めないといってました。映像では、呼吸がどうなってるか分からないので、直接感じたいと思って来ましたが、やはり、分かりません。
 分からなくてもよいのです。意識の上で解析できなくても、同じ空間で呼吸をしている限り、呼吸や皮膚感覚を通して、身体の方では、微細な情報をキャッチしています。「気」を感じていますから。癒されたとか、エネルギーをもらったとかいう人が多かったですね。舞踏って何か宗教儀式のように見えます。大野師の呼吸数は瞑想的、一分間に三、四回とかってところまで落ちているんじゃないでしょうか。
 舞踊を習っている人はたいていポーズ写真を撮りますが、初心者のポーズ写真は、一見型を決めているようで、実は決まっていない。重心が落ちていない、筋肉が弛緩していない、顔の表情も緊張しているというのが見えてしまいます。
 今回、見ていて面白かったのは、舞台というのか、写真展の会場の中央で踊りましたが、出番直前にも知り合いが寄ってきて挨拶したりと、特別に出演前の緊張というのがありません。舞台に上がってもそのまんまです。自然なんです。
 不自然な点もあるかな。ふだんは、手を引いてもらって歩いたりすることがありますが、踊りが始まるとそんな気配は見せません。
 意外と力が強くて、記念撮影を取る時、肩を組んでもらったらずっしりと重かったです。
 さて、写真展で強く印象に残ったのが、山形のロケで大樹と一体になったような写真です。昔、高山寺の明恵上人が木の上で瞑想したという話を思い出しました。ああ、きっとこういう姿なんだなと思いました。
 大野師も樹の上で瞑想できますが、舞踊家ですからそれでは面白くない。身体は完全に弛緩して樹に身を任せつつも、舞踊家の意識が首を亀のように突き出しているのが、殊に興味深かったです。
 近くでお客さんの反応を聞いていると、やはりこの写真が気に入ったという人が多かったように思います。日本人は、無意識のうちに人と自然が一体となるという観念、信仰を抱いているからでしょう。人間はもともと自然の一部です。


構造医学とバレエ

 インド舞踊も重力に逆らわない舞踊といわれますが、舞踏の方がその点は徹底しています。一つのイデオロギーでしょうか。インド舞踊は大地の神へのオマージュかもしれませんが、舞踏は自然そのものと一体となるのを理想としているかのようです。
 翁童論じゃないですけれど、他の舞踏家と違い、齢八十を数え、枯れてきてはじめて表現できる世界かもしれません。意識と動きが一致しているのは、名人、達人ですが、幼児の動きもまたそうです。全霊を込めて「アイスクリームが食べたーい!」とか泣き叫んで全身で表現します。
 話を戻しますと、一般に東洋の舞踊は重力に逆らわないのを原則とするのに対して、西洋では反対になります。つまり、バレエのようにジャンプして天を目指します。
 これはどこかで聞いた話ですね。構造医学の吉田勧持先生は、サケが上流へと必死で動き続ける姿に「生」の本質を見いだし、植物の芽が必ず天に向かって出てくる姿に確認しました。バレエは「生」を謳歌します。
 舞踏は人間的な意識の働きを捨てて自然に帰る、いわば涅槃(生命の火である息が吹き消された状態)に入るのを理想としているのでしょうか。私は「舞踏研究家」ではないので知りませんが。

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