本太風土記

<天台宗開宗千二百年と円頓授戒会>
Vol.17
再来年の二○○六年に天台宗は開宗千二百年を迎え慶讃大法会が執り行われます。比叡山延暦寺参拝や特別授戒といった行事が企画され、総授戒を呼びかけています。

伝教大師最澄
 日本で天台宗を開かれたのは伝教大師最澄です。もとは中国の天台大師智(ちぎ)が天台宗の開祖で、第二祖灌頂(かんじょう)、第三祖弘景(ぐけい)と受け継がれ、『三国仏法伝通縁起』によると戒律を伝えられた鑑真和尚は、中国天台宗の第四祖とされています。
 伝教大師は十二歳で出家し、行表(ぎょうひょう)の下で仏教の勉強を始めました。十四歳で得度試験を受け、沙彌(しゃみ)、見習い僧となりました。この時、沙彌の十戒を受けています。
 さらに、十九歳のときに東大寺の戒壇に赴きました。具足戒を受戒し、近江・国分寺の僧の定員の中にはいりました。
 この時、俗人の籍から抜けて祖庸調が免除され、生活が国家から保証されるようになります。
 僧侶が一人できると、弟子数名の経費、お寺の維持費や経典、当時まだ高価だった紙や墨、筆も支給されます。関取を何人抱えるかで運営できる相撲部屋みたいですね。
 伝教大師は十九歳の時から十二年余り、比叡山に籠もって学問・修行に専念し、一乗止観院(後の根本中堂)を整備した後、法華経の講義を始めます。
 やがて、桓武天皇からも認められ、三十一歳の若さで内供奉(ないぐぶ)の十禅師に選ばれました。
 天皇のそば近くに仕え、国家泰平を祈願し、天皇の病気平癒を祈る看病禅師です。
 遣唐使として選ばれ、中国で天台学の真髄を学んだうえで立宗しようということで、入唐求法を志します。
 桓武天皇は平安京の新都建設の夢を遣唐使に委ねたのでしょう。
 八○四年九月一日に明州、現在の寧波(にんぽー)の港に着きます。すなわち今年は入唐千二百年記念の年です。
 天台山では天台学のほか、禅林寺で達磨の禅法を授かっています。八○五年三月二日、梵網経に基づく十重四十八軽戒からなる菩薩戒を授かりました。これは大乗戒ともいいます。
 帰国の途に着いて明州から四月、越州に向かいました。現在の紹興です。ここで龍興寺の順暁阿闍梨から灌頂(浄められた水を頭に注いで、師の法門を弟子に伝える儀式)を授かり密教を相承しました。
 伝教大師はこのように天台の法華経(これを完全な教えということで円教と呼んでいます)、密教、禅、戒律を学んできましたので、日本の天台宗は円密禅戒の四宗合一です。

天台宗開宗
 八○五年六月五日に対馬に到着します。下旬には京都に入りその成果を朝廷に報告しています。 桓武天皇は大変喜ばれ、健康に不安があったので密教の祈祷に期待していました。九月に天皇の病気平癒を祈って修法を行っています。
 八○六年一月三日に上表し、一月二十六日に天台法華宗の独立が認められます。すなわち、年分度者といって、一年に二人比叡山から出家得度することが出来るようになります。
 言ってみれば比叡山大学の国家公務員としての研究員のようなもので、専攻として天台学に一名、密教学に一名選ばれ、学問と修業に邁進することになります。
 当時の僧侶は僧尼令で行動が制限されていました。
 自由に社会に出て行って困っている人を救済しようと活動したり布教をすることは出来ず、逆に山林に籠もって修行することも制限されていました。奈良の仏教では、僧侶の世界の中で立身出世することばかり考えていました。
 桓武天皇は理想に燃える最澄に仏教の再生を委ね、また伝教大師も菩薩僧を養成し、国に災難が起こらないように護国を志しました。仁王経によると百名の法師で護国が可能となります。
 また、天台の教えというのは、直接、釈尊の法華経の教えに基づくもので、論書に基づいた南都の学問宗よりすぐれていると考えます。
 奈良仏教では学問、修行などの努力によって悟りに達したり、出来なかったりすると考えますが、天台の教えは、皆平等に悟りにいたるすぐれたものです。
 心の奥にある仏性を呼び覚ますための教えは一つなので、それを「一乗」と呼びます。
 一乗は一仏乗の略で、乗は乗り物、ただ一筋に仏になるという目的地に着く乗り物、そういう仏教が本物であるという意味です。

大乗戒壇の設立
 さらに、伝教大師は『山家学生式(さんげがくしょうしき)』の中で「国宝とは宝石やダイヤモンドなどではなく道心のある人、菩薩である。インドの仏教では菩薩と呼ぶが世間ではそれを君子と呼んでいる。梵網戒は広いもので真俗一貫して用いられる」と述べ、出家も在家も同じ菩薩であると考えます。
 すべての人に仏性があるから、修行をすれば在家にあっても仏の悟りが得られるのです。
 今日につながる現代的な考え方でしたが、当時はなかなか理解されませんでした。
『山家学生式』で、東大寺の戒壇院のように小乗の二百五十戒を授けるのではなく、比叡山に大乗戒壇を設立することによって国を護れると朝廷に上表しましたが、奈良の七大寺の僧侶達に猛反対され、実現しませんでした。
 弘仁十三(八二二)年六月四日、伝教大師は五十六歳で亡くなられます。人生五十年ですから当時としては決して短くはありません。
 弟子の光定が嵯峨天皇の元に出かけ大乗戒壇を設立しないと桓武天皇の御願が叶わないと訴えて、六月十一日に勅許が下りました。これからの日本を救うのは奈良仏教ではなくて比叡山であるという認識に至りました。
 実際、鎌倉仏教の祖師、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮等は比叡山の僧侶として大乗戒を受けて巣立っていったのです。

戒律とは
 戒律は読んで字のごとく、戒と律という別のものからなっています。戒は自分で誓ういましめ、生きていく姿勢です。
 律は僧伽、僧院を維持するための規則、法律です。日本では四分律(しぶんりつ)が用いられました
 もともとが釈尊の時代のインドにおける僧院の習慣なので、気候や制度など中国や日本の実状にはあわず、社会活動の妨げにもなりかねないものです。
 実は、鑑真も天台の僧侶でしたので、四分律に基づいて授戒するだけでなく、梵網戒も併せて授けていました。東大寺では鑑真から聖武上皇、孝謙天皇、皇太后らがその菩薩戒を受けました。
 もともとが在家信者のための結縁戒、仏様とご縁を結ぶための授戒です。

総授戒のすすめ
天台宗の開宗千二百年を記念して、埼玉県では岩槻の慈恩寺で十月十九日に円頓授戒会(えんどんじゅかいえ)が執り行われます。
「あなたの中の仏に会いに」が標語となってまして、自分の心の中に住む仏様を自覚することを呼びかけます。
 受戒によって仏の光が自身の心中に入ってきます。戒体といって仏舎利の形で表現されていますが、光り輝く宝珠だと思ってください。
 おかみそりをいただいたり、誓いの言葉を繰り返したりしますが、介添えのお坊さんが一つ一つその場で教えてくださるので、心配ありません。
 宗派では壇信徒の皆様に、総授戒を呼びかけています。全員というのも実際は無理ですが、できるだけ多くの方々に参加していただきたいと願っています。
 天台宗の僧侶として出発した法然上人も同じ戒を授かり、そしてまた、多くの人に授けましたが、面白いことに摂政関白太政大臣、藤原兼実に何回も何回も戒を授けています。
 授戒には邪気を祓い、病気を治す不思議な力があると考えられていたからです。
 自分の中にある仏様の光の電池を交換しているのかもしれませんね。
 仏の心を磨いて光りましょう。

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掲載日 : 2004.03.04
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