精霊と女性の国 北タイ
6 タイにお姑さんはいない |
タイの家族についての話を、タイから帰ってからある市民講座でしたとき、会場から「それではタイにはお姑さんはいないのですか」と質問された。「そうですね。タイにはお姑さんはいませんね」と答えると、その人は「いいですねえ」と答えた。私は自分よりおそらくはかなり若いその女性が実感を込めてそう言うことにも印象を受けたが、20人ほども聴衆がいたかいないかの静かな部屋が、その瞬間どよめいたことにさらに強く印象づけられた。そして日本の家族というものについての自分のそれまでの経験が、いかに希薄だったかを痛感させられたのである。
日本で嫁-姑間につきものと考えられる忌避と遠慮の感情は、かつては同じイエのしかも台所を中心とする同じ領域で展開されていたが、核家族が一般的になり嫁と姑が同居することが希になった現代でも、多くの女性たちに経験され、またそうした経験をもたない人でも、その感情の存在を理解している。テレビ番組でも嫁-姑間の感情的な葛藤をテーマとして扱ったドラマが高視聴率を獲得している。この嫁-姑関係は日本のイエとよく似た父系的な家族制度をもつ韓国にもあって、さらに厳しいとされる。他方、北タイのように伝統的に妻方居住であったところには、姑を特別に表す言葉はなく、夫の母と息子の妻の間に他の関係にはない特殊な感情が生じるとは考えられていない。
妻方居住の理由を北タイの女性たちに尋ねると、出産や育児のときに母親や姉妹たちの助けが得られるのでその方がいい、という答えが返ってくる。インドやかつての日本や中国や朝鮮半島のように夫方居住の場合、女性たちが結婚によって生まれ育った家族や地域を離れ、ただ一人、夫の家族やその人間関係の中に入っていかなければならないのに対して、妻方居住では女性たちは、母や姉妹たちばかりでなく自分が築いてきた人間関係のネットワークを、結婚後ももち続けることができる。それは特に初めての出産や育児に直面する女性たちにとっては大きな助けになる。
他方日本では、夫のイエに入ることはなくなった現代ですら、「夫の家の家風に合わせる」という言葉や「嫁として」という言葉が、ごく若い世代を読者にもつ雑誌などでも当たり前のように使われている。ついこの間も結婚してまもなく離婚することになったアナウンサーが「嫁として失格」という見出しで週刊誌に報道されているのが目に留まった。このような社会の現象を北タイの女性たちの場合と比較して見ると、結婚によって日本の女性たちがその人格を、かつてのように断絶させられることはないまでも変容を迫られるのに対し、北タイの女性たちの人格は連続性が保たれるのだといえるかもしれない。
私の住んだ北タイの小さな村の女性たちは、口を大きくあけて実によく笑ったものだ。そして一人一人がまるで演劇の中の登場人物のようにキャラクターがくっきりしているように感じられたのも、おそらくはこの人格の連続性の結果なのだろうと思う。