延命寺 インディカ舞 昔話 Ver.2
昔話 Ver.2
昔々、その昔
今は昔、タイガー・ジェット・シンというプロレスラーが新日本プロレスに来て、アントニオ猪木と血みどろの戦いを繰り広げていました。
一方、全日本プロレスにおいて、今は亡き馬場さんのお相手はブッチャーでした。おでこから血を出すのが得意でしたが、愛敬のあるレスラーでした。さらに、「こんばんわ」の名言で知られるラッシャー木村が国際プロレスのエースでした。
素顔のシン、インド人ビジネスマンたるジート・シンに、是非、一度は会ってみたいと思うのですが、リング上のシンは狂気の沙汰で、猪木もシンの腕をわざと折ってしまうなどという暴挙に出たくらいです。ファンは熱狂しました。本気でシンを殺せと怒っていました。
シンはリング上のみならず、新宿で倍賞美津子とお買い物中の猪木に襲いかかるという事件まで起こしました。物騒な時代です。猪木と馬場も鋭く対立していました。
大学紛争で教室が封鎖されたりした頃ですね。私らの世代は、団塊ぶら下がり世代と呼ばれているのだそうですが、全共闘世代のエネルギーは凄かったと思います。おお、モーレツというやつです。
今は、インディーズというのか、枝分かれして数え切れないくらいプロレス団体があります。そして、エースが誰なのかよく分からない。
猪木の次の世代は長州、藤波、馬場門下は今も現役で頑張る天龍と、やはり今は亡きジャンボ鶴田でした。次の第三世代となると絶対的なエースがいなくなって、休み休み交代しているかのようです。団体間の対立もなくなり、垣根も低くなりました。ボーダーレスですね。
インド舞踊の世界もよく似ています。御大と呼ばれる人が何人かいて、インド舞踊教室というのはそこしかなかったわけです。二十年くらい前の話です。
秋の発表会シーズンには、総力を結集し競って興行を打ちました。ちょっと前は、創作舞踊劇が流行りましたが、それもまた下火になりましたね。
バリ・ブーム
昔、唐天竺は遠い国でした。私は二十年前に印度留学しましたが、二年半の間、帰国しませんでした。それが当たり前でした。回りには、七年間帰国しなかった先輩が二人います。面壁八年に近いですね。その道を極めるみたいな敷居の高さがあります。シタールもタブラーも、とても難しい楽器です。
インドは遠い国でした。仏跡ツアーというのはありましたが、長期旅行するのは世捨て人みたいなヒッピーばかりでした。インド旅行したいなどというと、女の子の親は泣いて反対したものです。インド好きなんて変わり者でした。
ですから、私の時代まではインド舞踊で留学している人など、ほとんどいませんでした。みんな日本でインド舞踊を習っていたのです。
一方、十年ちょっと前くらいから、バリ・ブームが起きました。遠くて取っつきにくいインドと比べて、バリ島の場合は朝出れば、夜のお祭りに行けてしまうくらい身近です。
恐い顔をしたインド人と比べてバリの方が理解しやすい。ガムランやバリ舞踊も取っつきがいいので、多くの人が魅了されて音楽や舞踊で留学する人が増えました。
そのためバリ舞踊人口が、数百人といっていいくらい急激に増えました。巷ではタイ料理屋がどんどん店開きした時期です。
大昔は、エスニックといえば(こんな言葉もなかったけれど)インド舞踊、インド料理でしたが、舞踊はバリ、料理はタイに主役をゆずるようになってしまいました。
しかし、最近は盛り返したかなあとも思います。
第三世代の時代
この数年はインド舞踊を習いにインドに行く人が大変増えました。第二世代までは、師を求めてインドを訪ねるという感じだったのですが、最近はインド舞踊の学校に長期留学する人が少なくありません。日本人が一番よく練習するなどともいわれています。また、日本での師弟関係のしがらみから離れ、ボーダーレス化してきたようです。
そして、より若い時からインド舞踊を習い始めるので、一般的にいって技術的にかなりレベルアップしました。
これも実はプロレスに似ているのです。技なんて数えるほどしかなかった力道山プロレスの時代と比べると、プロレスは進化しています。高度になりました。しかし、どれだけ感動を与えるかというと、これがまたまた難しいところです。結局、プロレスも舞踊も技を見ているのではなくて、人間を見ている、生き様を見て感じているのかもしれません。
この二、三年くらいじゃないでしょうか。留学生がどんどん帰国して、あるいは一時帰国してリサイタルを行うようになりました。また、大物舞踊家の来日も続きました。
今は、東京では月に何回も公演があり、また、各地に根付いて活動する人が増え、インド舞踊をいつでも何処でも、また、あらゆるスタイルを見られるようになったので、大変、ファンにとっては嬉しいことです。
時代の閉塞感
ファンは嬉しい悲鳴をあげています。バラタナーティヤムなど、特に、上手な人が沢山いて、とても、全部には行けません。
これは舞踊家の方からいうと苦しい悲鳴です。実は、インド舞踊家というのが五、六倍に増えても、ファンの数は二、三倍でしょうか。
インド舞踊を習う人というのも、首都圏に三百人近くいるんじゃないかと思いますが、昔のようにインド好きが高じてというパターンではないようです。
フィットネス感覚というのか、フラメンコでもフラダンスでも何でもいいんだけれど、とりあえずインド舞踊というように、普通の子が習っています。
そのため意外なことに、習っている子でも自分が身体を動かすことに興味があって、インドを勉強しようとか、他の人の踊りを見て吸収しようとか思わないのだそうです。端的にいうと、公演の数が増えれば増えるほど、一公演あたりの客計数が下がるという厳しい現実があるのです。その中でより頑張って満員にしているところも少なくないですが。
若い舞踊家は焦ってるみたいです。自分の「売り」を考えます。師匠は誰それで凄く偉いとか、名門舞踊学校出身とか、日本ではただ一人、何々派であるとか。さらに、私はバラタナーティヤムだけじゃなくて、オリッシーも、いやカタックも、モーヒニーアーッタムもできるのよ……と。
公演のやり方も、師匠を呼ぶとか、音楽家を呼んで生演奏で踊るとか、いろいろな踊りを一度に見られるとか工夫を凝らしています。バラタナーティヤムだけで満足させることができればそれで十分だと思うのですが、時代の閉塞感がなせることか、何か、もがいているように見えます。
私も、しばしばカラークシェートラ批判はしますが、やはり、リサイタルの形としては完成されていますので、変にいじくり回さないで、伝統に則った形で進行させて、その中に他の形式の舞踊を忍び込ませればいいと思います。
ボーダーレス
壮絶な死を遂げた力道山と比べるのもおかしいですが、だんだん時代が経つごとに、人間のスケールが小さくなって、個性が弱くなってきているようです。一時期の力道山や美空ひばりのように、日本人の思いをすべて引き受けるということがなってきました。自民党に反対する社会党というパターンも、だいぶ前に崩壊しましたね。今は与党が首相のやることに反対して野党が賛成する複雑な時代。
浜崎あゆみはギャルにしか受けないし、GLAYなんてロック・ファンであるはずの私が聞いても、面白くも何ともない。より小さく住み分けているようです。
昔はインド舞踊という一ジャンルだったのが、今やクチプリにナンギヤール・クートゥまで、様々なスタイルを習得する日本人が増えてきました。その反対に、国際化が進んで、日本人にインド舞踊を習うインド人まで出てきました。ボーダーレスです。
冗談で、インド舞踊はインドで滅びて日本に残るなんていってます。声明や、雅楽・舞楽はそうして日本に残ったものですから。近頃のイベントを見て思ったのは、インド留学で習った人と、日本でもっぱら習っていてインドで仕上げをした人を見比べても、日本育ちが、全然負けていないということです。
インドの都会の女の子は舞踊を習って、ちょっと有名になって、お金持ちとか外国人と結婚すればそれでよいと思っている人が多いのだそうです。また、オリッサのど田舎に師匠と一緒に住み込んで、丁稚奉公で修行してなんてことが出来なくなっているそうです。都会のインド人が出来なくなったことを日本人がやっているので、変な世の中です。なんだか訳の分からない世の中になってきました。
そして、その中からカリスマを身につけて、私がインド舞踊よと、他のジャンルの踊り手からも認められるような、いや、町行く人が誰でも知っているようなスーパースターの出現を待ってます。目指せ!草刈民代ですね。映画『バラタ踏んじゃった』!?そうすることによって、ジャンル全体が引っ張り上げられると思います。
猪木や馬場を知らない人はいませんが、今のメイン・エベンターが町を歩いていても、兄ちゃん大きいね、プロレスラーみたいだねと言われてしまうでしょう。
何か大きなうねりを作り出したいものです。社会現象にならないといけないですね。
IT革命とインド舞踊
最近、インド料理屋にインド人が多くなってきました。観光客ではなくて、コンピュータ関係のエンジニアが増えているのではないかと思います。年間五千人くらい受け入れると政府は言ってますが、期待しています。
何を期待しているのかというと、その中にかなり多くのセミプロの音楽家がいるのではないかと推測するからです。インド音楽は数学的に出来ています。
そして、エンジニアが仕事の合間にインド舞踊の伴奏をやってくれるのではないかなどと密かに夢見ているのですが。
また、マサラ映画だけでなく、積極的に日本人によるインド舞踊のリサイタルにお客さんとして来て楽しんでくれるといいなと思います。インド企業がリサイタルのメセナをしてくれると、なお、いいですね。
実は、インドの核実験反対ということで日本のインドに対するODAが、今、ストップしています。そのため、日本企業がインドにお金を出せない状況が続いているのです。
先日、BSでやってましたが、アーンドラ・プラデーシュ州のナイドゥ首相が熱心にIT革命を進めているそうですね。ビル・ゲイツやクリントン大統領もナイドゥ首相の下を訪れたそうです。
森前首相も追っかけるようにインド訪問をしましたが、それがきっかけとなって面白い動きが出てきたらいいなと期待しています。インドの伝統文化と最先端の技術で交流したいですね。
日印五十周年でどんな仕掛けが飛び出しますか、さて?
増補分(インド音楽研究会会報第20号より転載)
定例研究会100回記念大会報告/何てったって百回
原稿を頼まれたので、昔の「インド音楽研究」などを見ると、ティヤガラージャ・アーラーダナを1987年から始めているんですね。
最近はお休みしているようですが、ティヤガラージャの舞踊劇をやったことなど懐かしく思い出しました。
その発展形として、増上寺で「強いぞラーマ!」というミュージカルを、井上貴子さんの作詞作曲、野火杏子さんの振り付けでやったことも思い出し、感慨深いです。
当時の若手も、今やトップの舞踊家に育っています。同時に、院生だった研究会の発表者たちも立派な学者になって著書を著し、大学の先生になっています。
発足当時から印音研を応援してくださった姫野先生も亡くなられて五年経ちました。早いものです。もう、自分がジジイになってきました。
この度は、野火さんの先生であるウマー・ラーオ先生をお招きし、印音研の百回記念としてリサイタルが催されました。実は、その前日に野火さんの生徒二人、平林由紀さんと小尾淳さんがデヴューするアランゲットラムが、同じく築地本願寺のブッディスト・ホールで行われ、その余韻が残っていました。
余韻というのは、二人のデヴューをお祝いしようという暖かい、家族的な雰囲気です。狭いホールですが、超満員になりました。もちろん、インドから音楽家を招いてリキを入れた二人の舞踊も素晴らしく、いろいろな意味で感激しました。
一つは、ほとんど日本育ち、野火門下で修行して仕上げをラーオ先生に見てもらっただけなのに、インド留学歴の長い日本人舞踊家に全然負けていなかったことです。
おっとこれは印音研とはあまり関係がないかもしれませんが、皆様よくご存じの二人ですから、来られなかった方のためにここでご報告します。
翌日の公演もまた超満員で幸いでした。というのは、この一、二年の間、インド舞踊公演ラッシュ、大物舞踊家来日が続いて、へたをすると、また誰か来たの?と埋没してしまうからです。いくら、インドで有名でも、日本では知られていないですから。
先日は印音研に研究会の方でカラークシェートラのチャンドラシェーカル先生がお見えになりましたが、がっしりとした身体、カタカリのような深い構えに驚きました。
ラーオ先生はいうまでもなく、カラクシェートラ出身のトップスターで、今日では後進を育てることに力を注いでいますが、アビナヤの名手としての力は衰えません。そのしっかりとした立ち姿、運足の正確さにも舌を巻きました。イメージと身体の動きがぴたりと一致しています。
今回は、野火さんが、日本舞踊をやっていたこともあり、鷺娘をテーマにした踊りを創作しました。歌詞こそ日本語ですが、曲は実姉であるラーダーさん作曲の南インド音楽、決してきわものになることなく、振り付けもバラタナーティヤムの正調です。
わたしは、写真係だったのですが、出来上がりを見て驚きました。ラーオさんには違いないのですが、まるで日本人が踊っているような顔で写っていたからです。憑依した?なんて冗談をいいましたが、冗談ではないようです。
踊っていてラストの方で、ラーオさんは舞台の上で雪がちらちら舞うのを見たそうです。客席で見ていた人も、何人か同じ体験をしました。
もちろん、歌舞伎じゃあるまいし、そんな演出はしていません。
昔のインド音楽の名手は炎のラーガで宮殿を燃やし、雲のラーガで火を消したなどと言い伝えられますが、まんざら嘘でもないようです。 偉大なアビナヤの力によって潜在意識からそのような表象を浮かび出させ、お客さんをも巻き込んで見せてしまうのです。そんな理想的な舞台をプロデュースした野火さんはじめ、CNCや印音研の皆様のご努力には頭がさがります。お疲れさまでした。
しかし、最近のインド舞踊家の異常な盛り上がりは何でしょう。デビューする人が多くて、今や二十年前と比べるとインド舞踊人口は十倍以上に増えていると思います。月に何回も公演があります。
ところが、公演数が増えるに従って、一回あたりの集客が弱いという悲しい現実があるのです。お客さんの数はそれに比例していません。
印音研の会員も、じわじわではありますが増えています。これからも地道によい企画を考えて、様々なファン層に呼びかけ底辺を広げていきましょう。また、意欲的な若手を発掘するという面でも印音研の果たした役割は小さくありません。大変だけれど、まだまだ頑張らないと。
写真 上から順に 船橋美香 C.V.Chandrasekhar 鷺娘を踊るUma Rao 小尾淳(上)平林由紀(下) Miyabi(佐藤雅子) 撮影・河野亮仙 |
何てったって百回は偉業です。
次は、とりあえず二百回を目指して……。
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