デーヴァダーシーがインド舞踊の伝承者か?

大正大学非常勤講師 河野亮仙

インド舞踊を伝えたのはデーヴァダーシーか?
一般にインド舞踊の解説では、「インド舞踊というものは、二千年以上にもわたって、デーヴァダーシーと呼ばれる寺院の巫女さんが伝えてきて、神様に捧げる踊りで云々」と語られる。
決して、これが荒唐無稽な説だと主張するわけではないが、わたしはインド舞踊の伝承の外にいる人間なので、あっちにも、こっちにも、「チョイ、マッタ!」の付箋をくっつけたくなる。
まず、端的にいうと、二千年前にはデーヴァダーシーはいなかった。今日につながるデーヴァダーシーの制度的なものは存在しなかった。文献によってそれらしき存在が確認されるのは、六世紀以降のプラーナ期になってからである。
もっとも、記録になかったからいないと全面的に否定することはできないので、インダス文明の時代から、デーヴァダーシーの存在を推測する人もいる。世界最古の職業というくらいだから、三万人都市のモヘンジョ・ダーロに売春婦はいたことだろう。しかし、デーヴァダーシーの名称を使っていいのかどうかも問題だし、同一のシステムである可能性は非常に少ない。
母系社会の古代寺院等において、聖なる売春が行われていたことは、広く知られているので、インダス文明期にデーヴァダーシー的な存在があったとしても不思議はないが、確証があるわけではないのだ。
また、彼女らがインド舞踊を踊ったのだろうか。インダスの踊り子像として、腰に手を当てた女の像があるが、これが踊り子なのか、はたまた、単に腰に手を当てた日常動作であるのか結論は出せない。
踊りであったとしても、これは「インドの舞踊」であって、決して、「インド舞踊」ではない。インド舞踊の萌芽も、図像資料からは六世紀以降と推定できる。
インダス文明の担い手の中心はドラヴィダ民族であるとされるが、踊り子像の顔は南インドの人の顔には似ていない。腕にジャラジャラと腕輪を付けるようなところは、ラージャスターンやグジャラートの民族と共通するが、顔はやはり、彼らとは違う。一体、何人の顔なのだろうといつも思う。
インダス文明の宗教、舞踊、民族、文字・言語等について、まだまだ謎は多い。

デーヴァダーシーがいなくてもバラタナーティヤムは成立した?
そもそも、デーヴァダーシーがインド舞踊を伝えたとすると、その他の人々はインド舞踊を伝えなかったのだろうか。そんなことはない。
デーヴァダーシーが初めてインド舞踊を踊ったわけではなくて、先に、インド舞踊の方が起源して、その伝統のごく一部をデーヴァダーシーが継承したのだ。
だから、デーヴァダーシーがいなくても、インド舞踊は成立したし、バラタナーティヤムも存在しえた。バラタナーティヤムの名称は一九三〇年代になって使われるようになった。デーヴァダーシー出身のカリヤーニ姉妹の舞踊を「バラタナーティヤム」と称して、舞台に上げたのが始まりだ。
その核となる舞踊体系は十九世紀タンジョール宮廷の楽師の四兄弟によって確立されたものだ。バーガヴァタ・メーラーというお祭りを伝えるタミル・ナードゥ州のメーラトゥールやアーンドラ・プラデーシュ州のクチプリには、伝統的な踊りの師匠が住んでいたが、彼らは、皆、男である。
近現代のタミルで、イシャイ・ヴェッラーラは、楽師のカーストとされ、寺院の祭礼に奉仕する。ナットゥヴァナールと呼ばれる踊りの師匠やデーヴァダーシー、タミル語でデーヴァラディヤールがここに含まれる。
デーヴァラディヤールは、神と結婚するため、寡婦となることのない吉祥な存在とされる。バラモンや王族をパトロンとして、同じカーストやそれ以下のカーストとの性交渉は禁じられた。子供ができると母方のカーストに属し、女の子はデーヴァラディヤール、男の子はナットゥヴァナールや音楽家になった。
彼らイシャイ・ヴェッラーラやバラモンが音楽舞踊の伝統を継承した。デーヴァダーシーはその一部にすぎない。
では、彼女らが継承し、あるいは継承しなかったものとは何であろうか。 デーヴァダーシーは音楽舞踊を継承したが、彼女らの舞踊は、主としてラースヤ、すなわち、女性的な優しい舞いである。今日見る舞踊の中では、ケーララ州のモーヒニー・アーッタムがラースヤに特化していて、昔のデーヴァダーシーの面影を残す。 一方、ターンダヴァと呼ばれ、シヴァ神が踊ったとされる男性的で躍動的な踊りの要素もある。これには、大変な筋力を要する。
近年、スポーツの分野においても、女性にはきついとされてきた長距離走や、重量挙げ、レスリングなどが注目されるようになってきたが、今日のインド舞踊もまた、男性的要素が強い。昔の踊り子はこんな踊りを踊らなかったはずだ。それは、残された図像からも読める。昔のデーヴァダーシーなどの踊りは、バラタナーティヤムの基本ポーズとされるアラマンディという腰を落とすポーズをとらずに、突っ立っていて、楽な姿勢をとっている。
つまり、ターンダヴァの要素の弱いデーヴァダーシーの伝統だけでは、バラタナーティヤムは成立しきれなかった。今日のインド舞踊の持つ演劇性や、スピードとスリルに満ちた競技性を獲得しえない。
逆にいうと、デーヴァダーシーが、当時、ナウチ・ガールと呼ばれた娼婦的な踊り子を排斥する運動によって、踊りをやめたとしても、多少違う形で、少々成立が遅れたかもしれないが、現代インド舞踊たるバラタナーティヤムは成立しえた。
また、従来のナウチとかダーシー・アーッタムという手垢の付いた名前ではなく、新生インド舞踊たる「バラタナーティヤム」の名を冠することによって、古典の文献であるバラタ作『ナーティヤ・シャーストラ』との関係を強調し、その存在を正当化したのだ。インドの民族主義、伝統文化に誇りを持とうという運動の一環でもある。

悪所から芸術に
また、非常に面白いことに、これは歌舞伎のたどってきた道と平行する現象である。「傾き」は、歩き巫女といわれる出雲のお国が、遊女歌舞伎踊りを始めたことに由来するとされる。お国は念仏踊りを舞台で上演した。今日の歌舞伎とイコールではない。
風紀上よろしくないので禁止されて、若衆歌舞伎になる。アクロバットも売り物だったが、今でいうゲイ・ボーイのショーのようなものである。これもたいして変わりない、あるいは、ますますやばいということで、野郎歌舞伎に変わった。歌舞伎は悪所におけるよろしくないもの、怪しげなものというイメージは続いていた。見せ物小屋、ストリップ小屋の感覚である。
これが、明治期に入って、今日のような「芸術」に祀り上げられたのである。明治五年に東京府庁から江戸の三座に通達が出た。また、当時は、新派も新劇も新国劇も、何もないのだから、歌舞伎といったら「現代劇」である。
通達では、外国人も増えたので、より上品なものを、親子でも楽しめる恥ずかしくないものを、教育上、史実を偽って上演しないようにと指導された。さらに、脚本の検閲まで行われるようになった。
伊藤博文は、西洋の演劇は高尚で、観客は上流階級、俳優も学識があるというので、これに倣うようにと演劇改良運動が行われた。明治二十年に、外相の井上馨邸で初めての「天覧歌舞伎」が催された。
一流の国には一流の芸能があってしかるべきで、大急ぎで歌舞伎を「世界の歌舞伎」に仕立て上げたのだった。岡本綺堂や大仏次郎、森鴎外、幸田露伴、坪内逍遙、近年では三島由紀夫が新作歌舞伎を手がけている。
インドにおいても、同じ状況で、世界に誇るインド舞踊の確立が急がれた。ノーベル賞作家のタゴールを始め、超一流の詩人や学者がインド舞踊の再生に努めた。インド・バレエの創作を志したのだ。
日本では歌舞伎が明治期に変革されているのに、わりと、語られないことが多い。 現行のバラタナーティヤムも、デーヴァダーシーの踊りと同一、全く同じものではないと、誰もが知ってそうなものなのに、あまり言わないことになっているようだ。 連続性を否定される、「なーんだ、今世紀に作ったものじゃないか」と言われるのが恥ずかしい?のだろうか。
しかし、そんなことはない。伝統とは決してその残骸を保存することではなく、その生活文化や環境を背景に、外からの影響も消化して、日々創り出されるものである。宗教的、芸術的表出の形が変わっても、それを生み出すスピリットの継承が伝統である。 今日の歌舞伎が、お国の風流念仏踊りや、アクロバチックな若衆歌舞伎と全く違う、デーヴァダーシーの踊りと現代的なインド舞踊が、全然違うといっても、伝統は、見える形見えない形で、しっかりと受け継がれている。

個の確立 
バラタナーティヤムは不思議な踊りだ。インド舞踊の代表のように思われているが、インド舞踊の中心にあるのではなくて、極端に突っ走ったところに位置する。
腰をくねらすような自然の動きを押さえている。腰をくねらすエルヴィス・プレスリーは、道徳教育上けしからんというのと同じ発想であろう。
西洋人のいうセンター、日本でいう正中線、あるいは中心線を意識して、極端に直線的な形にバラタナーティヤムを形成したのではないか。「インド人の考えた清く正しいバレエ」というわけだ。
隣接するアーンドラ・プラデーシュ州のクチプリの方が自然な動きで、元の形に近いと思われる。ちょっと、はすっぱなところが楽しいと思うが、バラタナーティヤムは猥雑性を排除して、直線的に構成したのだろう。少し、息が詰まる感じがする。
そのように、バレエを意識して在来の舞踊を変革しても、天に飛翔する意識を持つバレエとは異なって、しっかり、大地に根ざす舞踊の伝統をはずしていないのはさすがだ。
アラマンディの構えは、天然自然の中で重力に抵抗しながら、個体、人間の重さと釣り合いをとっている。個性を発揮するのが、インド舞踊の「芸術」としての確立である。
インドから音楽家や劇団が来日すると、しばしば、秋葉原に連れてゆく。カタカリ役者や音楽家は、とても個性的で、それぞれ勝手な動きをする。それに対して、集団的なトランス芸を見せる仮面劇チョウの踊り手は、一塊りになって動いていた。
仮面を付けて表情を見せなかった能楽の時代から、隈取りで強調して顔の表情を見せる歌舞伎が近世になって主流になったように、現代のインド舞踊も、個性の確立を図って様々な試みがなされている。何とか進化させたいと創造性を発揮している。インド舞踊は現代舞踊である。

 

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