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延命寺 インディカ舞終章「モークシャ」

 

タイトル

終章「モークシャ」

 

辛かったと思う。苦しかったに違いない。羽をもがれた小鳥のように。だんだん重荷になってきた。 オリッシー・リサイタルの最後の曲は「モークシャ」だ。開放感にあふれる曲で緊張して見ていた気持ちをリラックスさせる。バラタナーティヤムのプログラムでいうと「ティラーナ」に相当する。 文字通りには解放という意味だが、仏教では解脱と訳される。踊ることによって悟りに至るなどと解説されるが、いまいち、よく分からなかった。哲学的に思惟するインド人は、身体という楽器を奏でて音声やメロディを発生させ、そのことによって解脱を獲得すると考える。ヨーガの理論と結びつけて考察が進められているが、音楽のみならず舞踊もまた解脱に至る道である。


オリッシー・デビュー(84年増上寺)
オリッシー・デビュー(84年増上寺) 麻子さんは84年10月に増上寺の第二回インド祭りでオリッシー初舞台を踏んだ。写真を探し出して見たら第三列でおずおずと踊っていた。最後尾からスタートしてすぐに先頭に立ち、47年のマラソンを駆け抜けてしまった。「普通の 生活」という感覚がなくて、どこか遠くを見ていたようだ。 増上寺のステージは、とりあえず舞台にあがりなさいというかんじで、オリッシーの衣装やメイクをしていない。バラタナーティヤムのステージもあったので、踊るシヴァ神の像が飾られていた。オリッシーの神様はジャガンナート神である。果たして一年足らずでどれだけきちんとした動きが出来たものか分からないが、これが日本におけるオリッシーの記念すべき一ページ目だ。 求められるままに踊っていたようだが、ソロ・デビューが何時なのか聞いていない。早稲田銅羅魔館で行われたパフォーマンスがある意味「正式な」ソロ・デビューかもしれない。その時、野火杏子さんは制作する側にいて、バラタナーティヤムとの違いはあるものの、こんな風に踊りたいと麻子さんの美しさにあこがれていた。麻子さんを見て、オリッシーを、インド舞踊を始めたという人には何 人も会った。 インド人よりうまいという人も多かった。技巧的に勝れた人はいくらでもいるのだろうが、麻子さんの踊りには日本なまりとでいうべき所があって、それで親しみやすさを感じたのかもしれない。ふんわりと包みこむような心地よい陶酔をもたらすのが麻子さんの持ち味だった。閑かな佇まいの内に秘められた炎がきらめいていた。 秋吉敏子はジョン・ルイスに「トシコはジャズに日本的なものを持ち込んだ」と評価され、本場のアメリカでジャズ・マスターズに選ばれた。一回りも年上のハンク・ジョーンズよりクラシックなスタイルで弾いていて、まさに、生きたビ・パップ遺産だ。 渡米した麻子さんの役割も秋吉さんに似ている。大変な追悼コンサートが行われているところをみると、日本を代表するオリッシー・ダンサーとして顕彰されているのが分かる。麻子さんも認定機関こそないもののオリッシー・マスターズに値する。 一時帰国した時に、アメリカでインド人にもインド舞踊を教えていると聞いて、ああ、そういう時代になったのかと思った。パッラヴィ・ダンス・グループを主催してベイ・エリアで活動していた。マイケル・ジャクソンのビデオ・クリップにもオリッシー・ダンサーが登場するなど、アメリカでもオリッシーは注目されているのだろう。

kunkum Lal(83年増上寺)
kunkum Lal(83年増上寺) 一般に、オリッシーのリサイタルは「マンガラチャラン」で始まり、二曲目がオリッサの寺院に描かれる踊り子像を描写した「バトゥ・ヌリティヤ」、そしてアビナヤ中心の曲を挟み最後は「モークシャ」となる。この名前を挙げた三曲などがグル・ジーの制作した中で最も古い曲ではないかと想像している。今度、クンクマさんに会ったら確かめてみたい。 舞踊の始めには、大地の神に、ちょっと踏みつけてお騒がせしますからよろしくお願いしますとお断りして舞台を浄め、グルの系列に礼拝し、ガネーシャ神に供養して喜ばせて舞台の成功をお祈りする。 音楽や舞踊もクーリヤーッタムのようにもともとは儀礼として行われていたので、オリッシーの場合も神様を舞台にお招きする、そして一体となって踊るものだとわたしは思っている。舞台の上で歓喜アーナンダを表現して、観客に祝福を与える。 そうして、舞台に降りてきた神様が最後にはお帰りになる。それが解き放すという意味の動詞√mucから形成されたモークシャの意味だと解釈してきた。 麻子さんは自分が病身になってから、人に喜んでもらうために踊れないこと、それどころか人の厄介になってることをとても悔しく思っていたに違いない。それがとても重荷で苦しく感じていた。早く解放されたいと思っていたのが死期を早めたかもしれない。 古来、インド人は厭世的というか、王侯貴族でもない限り日々の暮らしを煉獄のように感じていた。そこが温和な気候、海の幸山の幸に恵まれた国土で、人生が楽しいと感じている日本人との違いだ。 生まれるのが苦の始まり、老いは衰えはすぐにやってくる、病気も苦しければ死もいやだと四苦八苦を唱えた。生まれ変わってもまた別の地獄、餓鬼、畜生道が待っている、天人でさえ五衰すると考えられている。その苦しみの輪、輪廻から解放されることを目標としていた。 麻子さんは人に大きな喜びを与えてきたけれど、その分だけ大きな重荷を背負いこんでしまった。これは芸能人の宿命だ。早めに荷物を降ろすのもしょうがなかったかという気がする。 四年間に及ぶ闘病生活からようやく解放されて終章「モークシャ」を踊り終えた。内なる炎が燃え尽きてしまった。最後は安らかな美しいお顔で眠っていたと聞く。 涅槃寂静の世界にお休みください。
ラール家でのパーティー。ラージャスタンの絵語り師ボーパを迎えて
(84年11月)
ラール家でのパーティー。ラージャスタンの絵語り師ボーパを迎えて(84年11月) ※写真やプログラムなどの資料が散逸しているので、麻子さんの年譜を作るために協力していただけると幸いです。 準備が整ったら写真展や追悼リサイタルを企画したいと考えているので、よろしくお願いします。

高見 麻子
河野亮仙 合掌

 

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