インディカ舞

上野さんのこと
 去る11月8日、かねてから病気療養中だった画僧、上野玄春師、薬石の効無くご逝去されました。肝臓癌でした。昭和21年、奇しくも同じ11月8日、栃木県に生を受けました。世寿58歳。
 十年前、浦和からヨーガの聖地リシケーシーのような空気の澄んだ長野県安曇野の梓川のほとりに活動の拠点を移しました。梓川をガンジス河に見立て恒河舎と称し、インド舞踊やヨーガ、自然療法など様々なイベントを繰り広げていました。
参考URL  http://www.h3.dion.ne.jp/~gohgasya/syoukai.htm
 玄春さんと知り合ったのは昭和の終わり頃です。奥様の直子さんは、田中裕見子さんのお弟子さんで、インドで先生について習った後、マ・亜土夢・プラチッタの名でインド舞踊家として活躍し始めたところでした。
 昭和62年の3月に浦和・岸町の調神社でインド舞踊を奉納するから来てくださいという、丁寧なお手紙を頂戴しました。あいにくその日は大雪で、出そびれてしまったのですが、お二人とはその後親しくさせていただきました。
 玄春さんは東京教育大学に進まれ、美術の教員になられました。が、思うところあって旅に出て、いや、よくあるパターンですね、インドを放浪し日蓮宗の僧侶として出家されます。全共闘運動の真っ只中に育っています。団塊の世代、日本をぐんぐん引っ張っていったオー・モーレツの世代です。わたしたちは団塊ぶら下がり世代と呼ばれているようで、お兄様方の華々しい活躍を仰ぎ見ている方でした。
 当時は右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジンといわれたものです。「明日のジョー」が流行りました。真っ白になるまで燃え尽きろが合い言葉でしょうか。上野さんも、ちょっと早いと思うのですが、命の蝋燭が燃え尽きてしまいました。
 玄春さんは北区の仕事で、北とぴあのイベントをプロデュースしていた時期もありましたが、宮仕えは向かなかったようです。管理社会が嫌いなのでしょう。でも、やっぱり教育者だったと思います。絵のこと踊りのこと呼吸のこと、身体のことなど誰にでも懇切丁寧にお話しされていました。
 4年前の6月、カラークシェートラ留学から帰国したばかりの川原田文香さんのリサイタルの舞台監督として北とぴあで活躍しました。一昨年は、里見まこさんの舞台もプロデュースし、北とぴあのステージの背景に自作の両界曼荼羅を飾ったりしていました。お二人とも直子さんのお弟子さんです。夫唱婦随でインド舞踊のリサイタルをしていましたから手慣れたものです。その颯爽とした活躍ぶりが今でも目に焼き付いています。
参考URL http://www.enmeiji.com/mai/mai8.htm
 いつも、玄春さんがお話しし、直子さんが振りをして、踊る内容を分かりやすく説明していました。この名調子も見られないのかと思うと……。
 直子さん、マ・亜土夢・プラチッタさんはご自分でも気がついていないかもしれませんが神々しいオーラを持った踊り手です。オーラというのは練習すれば出るというものではないので大変な財産です。今は子育てやお仕事で引退状態になっているのが残念ですが、また落ちついたら、是非、復活して欲しいものです。
 本人はもう、自分の弟子が立派に育ったから今さら踊らなくてもいいとおっしゃってるそうですが。直子さんに一度ワークショップをお願いしたことがありますが、教え方がとても上手でした。

インド舞踊雑感
 日本におけるインド舞踊の草分けは榊原舞踊団でしたが、マドラスの舞踊学校、カラークシェートラには大谷紀美子先生が最初に留学されています。三十年以上前の話です。この頃の常識からいうと、女の子がインドに留学するなんてとんでもないことでした。
 インドは今でいうならアフガニスタンやイランのように遠くて危ないところと思われていました。浄土真宗本願寺門主のご令嬢だったので精神的にインドは近かったのでしょう。浄土真宗では明治時代から仏教原典研究のため、僧侶をマドラスに派遣していました。ナマステ・インディアを築地本願寺でやらせていただいているのはそのご縁です。
 大谷先生は音楽学者として大学に勤めるのが本業で、転勤を重ねられたため、授業などで教えることはあっても、弟子を取って育てるということはなさってらっしゃらなかったようです。
 公演活動を通して東京で本格的にインド舞踊を紹介したのはカタックのヤクシニー矢沢さん、バラタナーティヤムのシャクティさんと田中裕見子さんでした。これもまた二十年昔の話ですね。そこにご主人のお勤めの関係で日本に滞在されていたオリッシーのクンクマ・ラールさんが加わりました。83年84年の増上寺インド祭りに参加し、オリッシーの種を蒔きました。
 自慢話になりますが、インド祭りの立ち上がりの時に増上寺でやろうと提案して、今日のナマステ・インディアの原型を作ったのはわたしです。
 上野直子さん始め、野火杏子さんや久保田幸代さん、小澤陽子さん、クンクマさんの弟子、高見麻子さんらが第二世代の踊り子ということになるのでしょうか。この頃もまだ、そう簡単にはインドには行けず、自分で考え工夫して踊ってましたから、みんな踊り頭がいいです。踊り頭がよくないと、身体だけ動く体操のようになってしまって舞踊になりません。
 その方たちのお弟子さんの活躍がめざましく、今や、第三世代、第四世代の時代です。シャクティさんから数えると、現在習っている生徒のなかには第五世代もいます。日本におけるインド舞踊の歴史もたいしたものだ。
 面白いのは、同じカラークシェートラでバラタナーティヤムを習っても、時代によってずいぶんスタイルが違うことです。大谷先生は腰高で、手の振りなどすたっすたっと放り投げるような感じです。
 デーヴァダーシーの写真などを見ても腰高なので、昔はこういうスタイルだったと思います。カタカリの影響でがっしりと腰を落とすようになったのではないでしょうか。いつも言ってるように、これは男踊りの型です。バラタナーティヤムって分解すれば半分はカタカリなんじゃないかな。
 オリッシー・ダンスの場合も、今年亡くなられたグル・ケールチャラン師の弟子といっても時代によってスタイルが変わってきています。一番弟子のサンジュクタ・パーニグラヒさんは、割合若く亡くなられてしまいましたが、それに続くクンクマ・ラールさんが古い形を伝えています。オリッシーの曲が5曲くらいしかなかった頃のお弟子さんです。
 クンクマさんは高見麻子さん、ミーナこと森田三菜子さんらを育てましたが、ミーナさんが子育てを終え、アメリカへ渡ってしまった麻子さんの穴を埋めるかのように舞踊活動を始めました。同じ型の踊りを踊るのでとても懐かしいです。クンクマさんご自身も五十代半ばを越えたかと思いますが、また、現役復帰するとお聞きしていますから楽しみです。
 晩年のグル・ケールチャラン師について習った安延佳珠子さんの踊りとは、結構違うようです。とても面白いことです。合気道の場合でも、同じ植芝盛平翁に習ったすばなのに、いつ習ったかによって形もポイントも異なるので、いくつもの流派に枝分かれしています。
参考URL http://homepage3.nifty.com/studioodissi/odissi.htm
 日本で大谷先生始め、カラークシェートラ出身者を各時代ごとに何人か集めたら、バラタの歴史、「生きたバラタ博物館」を日本で実演できてとても面白いと思うのですが。概して日本人は保守的です。そして、いつまでも、四十になっても五十歳になってもよい生徒でいたいと思っていて依存心が強いです。
 自分で自分の人生を振り付けて踊る人は少ないです。ある意味では、師を裏切らないと自立できません。

恒河舎へ
 上野玄春さんは初期の頃、横尾忠則ばりのシュールな抽象的な絵を描いてらっしゃいました。深層意識に興味があって瞑想などを試みたのでしょう。近年はたびたびバリ島に出かけ、木々の緑、花の命を写していました。その中にインド舞踊を踊る奥様の姿を画くなど、独自の画風をお持ちでした。実は昨年、そのバリ島で食あたりになったのが、今回の病気が分かったきっかけでした。
 癌と分かったときには、正直いって手遅れだったのですが、師は全くひるみませんでした。たんたんと自分の進む道を行かれました。自然療法で、医者も信じられないほどの回復を見せました。この新緑の頃、安曇野のご自宅にお見舞いに行ったときには本当にお元気だったのでこの分なら大丈夫と喜びました。積極的に9月の個展に向かってあれこれと楽しそうにプランを練ってらっしゃいました。
 やはり、身体には負担だったと思います。でも、画僧と自称してらっしゃるように、これがお務め、生の証しです。ある意味では個展自体が覚悟しての「生き葬式」だったのかもしれません。30名を予定していたレセプションには80名見えたそうです。
 お彼岸頃に松本美術館で個展がありましたが、この頃はかなりつらい状態だったと思います。絶食して枯れていって即身仏になるんだとおっしゃられていたそうです。彼岸に渡る準備です。10月下旬に入院されます。病院嫌い、医者嫌いでしたから、本当に最後のぎりぎりまで行かなかったんじゃないでしょうか。しかし、見事に往生の本懐を遂げました。
 身内だけで葬儀を済まされ、14日にはもう初七日です。わたしは所用でお弔いに伺えませんでした。実は13日、奥様の直子さんのお弟子さんだった里見まこさんと池田未央さんのリサイタルが松本であります。これじゃまるで、追悼コンサートを計画していたかのようです。
 うちで日曜日に法事がないってことは、まず無いのですが、11月14日はたまたま身体が空いていました。13日の午後、法事を済ませて松本に向かい、玄春さんの身代わりでリサイタルを見届けました。里見さんは直子さん譲りの端正な踊り、池田さんは初々しく溌剌としていました。もっと先輩の魅友貴さんも直子さんのお弟子さんでした。本当に素晴らしい舞踊家を育てられています。里見さんは上野さんのヨーガの後継者としてお教室を受け継いでます。
 翌日は安曇野の花見上野のご自宅で、初七日の法要をお務めしました。玄春さんのご指名ですね。すべて企んでいたかのようです。
 決して長い人生ではありませんが、昔なら、伝教大師も日蓮上人もそのくらいの年で亡くなられてます。十分に生を全うされました。見事な往生です。
参考URL http://www.bussei.com/
 蓮光院日應上人、深い瞑想に入られたことと思います。実に有り難い出会いでした。わたしたちの心の中に、あなたの教えは生きています。死を通して生を教えてくださいました。本当にありがとう。ごゆるりとお休みください。

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