インディカ舞

観音経と「アメイジング・グレイス」その四/身体を忘れた日本人
浦和の地元では見沼太鼓といって子供たちがやる太鼓グループが人気を集めています。
かつて、埼玉県南部では連経が盛んでした。連経とは、皆でお寺の庭に数珠のように連なって座り、観音経を唱えながら太鼓打ちがバチをとばすなどのケレン技で他の講と競ったりするものです。県北には光明真言を唱えながら太鼓を打つ講もあるそうです。
延命寺の観音堂には江戸時代の連経講の絵馬があり、市の指定文化財となっています。戦後も続けているところは少ないのですが、去年のお観音様の開帳の時に広田寺さんの講を拝見させていただきました。
観音経は読んでとても調子のよいお経ですから、太鼓を叩いてお唱えするとまことに楽しいです。太鼓を叩くというように身体を十分に使い切るのがよいのではないでしょうか。太鼓を叩くセラピーというのもあります。
ゴスペルもコーラスの美しさというよりは、強さ、思いっきり身体を使って響かせる、体感するという点に快感を発見したのではないでしょうか。叫びにも近いような、歌うというもともと原始的な感覚、声の力をゴスペルによって取り戻したいからかもしれません。
一方、日本では明治以降に近代仏教学が入ってくると教学が発達し、節談説教など浪曲みたいでみっともないから止めるべきだという風潮になりました。人情話を含め、時には荒唐無稽になってしまいがちな因縁譚を語るより、仏教の教え、宗祖の教えを正しく広める布教活動に変わりました。
もともと、宗教儀礼も芸能もルーツは一緒なのに、今日ではつまらないお説教、眠たい法事とエンターテイメントは全く別物になってしまいました。

「行」の時代とは
真言宗智山派管長の宮坂宥勝先生は、二十世紀は「教」の仏教だったが、二十一世紀は「行」の仏教だとおっしゃっています。その通りだと思いますが、「行」というと若い人は苦手と感じてしまうかもしれませんから、「実技」の仏教と言い換えたらいいのかもしれません。
近年はどの宗派でも声明を熱心に習うようになって、コンサートホールなどでの声明公演が盛んになってきたのは喜ばしいことだと思います。
声明と他のジャンルの音楽や舞踊を組み合わせる試みも各地、各宗派で行われていますが、我が延命寺で行われている埼玉県仏教青年会の花祭りはその最先端を行っていると自負しています。
また、仏教雑誌「大法輪」にも児玉義隆先生の連載がありますが、梵字、悉曇にも復活の兆しが見えます。仏教系の大学でも、本を読めば分かるようなことばかりでなく、もっと、実技に力を入れてほしいと思います。技を持っているのがプロの僧侶だと思います。わたしはいつも「求む、一芸坊主」といってます。
どうも、最近のお寺のご住職は、ご子息にお願いだからお寺を継いでくれということで、一通りお経が読めて、塔婆を書ければ十分だから後は好きなようにしてくれとばかり、あまり、弟子を外に出して修行させようとは考えておられないようですね。
埼玉県仏教青年会をやっていて「宗派の壁」というのを痛感しました。写仏や梵字講座など勉強の機会を設けているのですが、出て行っても出世とは関係のない地域仏青には参加してくれません。うんと外の世界を見て勉強していただきたいと思っているのですが。仏青は寺子屋を目指したらいいのかもしれません。
先日、比叡山の籠山行を二十四年終えて山から降りてきた友人が、町で遊んでる子供がいなくて驚いたと語っていたそうです。
今の子は十年前の子供と比べても、運動会で組み体操が出来ないなど、基礎体力が弱くなっていると聞きます。これは外で遊んだり、レスリングもどきのじゃれ合いをしなくなったからだそうです。暖房が発達して押しくらまんじゅうなどという遊びもなくなったのではないでしょうか。
踊りも踊らなくなって、近所の盆踊り大会に行っても婆さんばっかりです。踊り念仏に発祥するといわれますが、かつての熱狂はありません。
町でお店がつぶれると、たいてい次に出来るのは進学塾かマッサージルームです。お習字や算盤といった手習いごとにも人気がありません。しかし、最近の研究では大脳生理学的に右脳、イメージ脳が発達してよいということで見直されてきています。
密教の阿闍梨は仏師であって声明も悉曇も出来ないといけないのですが、確かに、そのようなイメージのトレーニングをしてからじゃないと瞑想の世界に深く入っていけません。

お経と舞踊は呼吸が肝要
瞑想も呼吸法が要ですが、お経もそうです。お経をきちんと読むこともまた、深い瞑想の前提となる修行だったのです。
マイクやスピーカのない時代、大人数を相手にするには声の鍛錬が必須で、横隔膜を使って強い声を出し、リズミカルに歌のように響かせます。お釈迦様も獅子吼といって大音声を発することが出来ました。
声明も易しくはないですが、節が付いているだけ楽で、本当は棒読みの方が難しいと思います。そもそも僧院では一人で読むということはあまり無かったのかもしれませんが、息がとぎれないようにスムーズに読むのは至難の技です。
あまり意識しすぎると、ここで息継ぎしているなと気付かれてしまいます。息継ぎをしないのは不可能なので、息継ぎするぞという意識を消せばいいのでしょうね。
友達なんかと話していても、意外と「わたしお経好きです」という人が多いです。延命寺では斎場をやってますから、余所のお坊さんのお経をよく聞きますが、たいていの方は達者です。ただ、お経の声が身体にしみてくるのには時間がかかるようです。
子供のブラスバンドなどでも、アンサンブルはよく練習するんでしょうが、身体が小さいので音が響きません。声楽家だけではなく、プロの奏者は自分の身体が楽器になってます。坊さんも年期が入るとそうなってきて、響きが変わってゆきます。お経は地声でそのままといいますが、声の善し悪しは関係ないみたいです。声の力というのは、実は呼吸の力です。
素人のお経というのは自分の回りにだけ声がまとわりついているような感じですが、プロのお経は良く飛びます。横隔膜も使ってますが、イメージやエネルギーを放出しているのだと思います。
踊りをやっているような人には太極拳など簡単で、一日で振り付けは覚えられると思いますが、それで実際、太極拳かというと難しいところです。やはり意識と動きが連動して気が流れないといけない。天然自然に同調しないといけない。
お経や所作も長い時間やり続けないとものにならない。踊りというのもまた、難しい振り付けやステップをこなせたからそれでいいかというと、決してそうではない。そこが競技と違うところです。
もう出来たはずのことをいやという程やり続けて気の流れ、呼吸や脈拍などの変化が安定し、自分なりの内的な型ができます。内蔵をも含めた絶対身体感覚を身につけて、やっと自分の味わいがにじみ出てくるようになります。チャラチャラした個性とは別の、何か言語を超えたメッセージですね。

型と個性
お経もやり続けていると自分のものになるのはいいのですが、節回しなど習ったときからだんだん変わってしまいます。でも、それでいいんじゃないかと思う。
そもそも奈良・平安時代には各宗のお坊さんが集まって一緒に四箇法要を行ってました。当時、どれだけ声明の声がそろったかは疑問ですが、同じお経を読んでました。そして、今も、全く同じ経文を用いて天台も真言も法要を行ってますが、節は全く異なります。真言宗でも高野山派と新義では違います。
師から弟子へと伝えられているうちに、いつの間にか異なる節になってしまうし、同じ師でも若いときと晩年では、言ってることもやってることも違うものです。
型は徹底的に習わないといけない。メッセージを運ぶための文法として踊りの型を身につけないとでたらめになってしまいます。繰り返し習って、人の型を見て、表面上の型に秘められた本物の形を発見し、やっと自分のものになります。
実際、身体も変わってしまうので、全く同じことを何十年やり続けることは出来ませんが、繰り返すべき、強化すべきは呼吸によって支えられたイメージの流れです。
繊細に構築されたイメージを運ぶのは呼吸で、呼吸が暴れたり途切れたりしてはいけない。呼吸には微細な生体リズムの情報が載ってますから、生き物は皆、気配を感じています。スーパースターは登場するだけで空気を変え、呼吸を通じて空間を変え、人の感情を支配する事ができます。呼吸のコントロールが強く、また細かいからです。
踊り手もお坊さんも呼吸を練っていますが、お坊さんには弱点があって、一般に、身体ができていません。身体のコントロールが十分にできて初めて呼吸も緻密になるのだと思います。ヨーガではそれを目指しています。踊るヨーガ、舞踊家の方がやはり、お坊さんよりアピールする力は強いなと脱帽しています。

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