インディカ舞

観音経とアメイジング・グレイス/その三に代えて
実に残念なことに百観音明治寺の草野榮應師が入寂されました。当ホームページからも師の珠玉のエッセイ、「榮應阿闍梨の一口伝言」にリンクしてあるので、おなじみの方も多いでしょう。
そしてまた、頻繁に訪れる方なら去年から連載が間歇的になってきたことにお気づきかもしれません。体調を崩しておられましたが、こんなことに至るとは実に驚きました。
師は大学の少し先輩で、奇しくも去年亡くなられた佐久間和尚と同期なのですが、何故か、研究室でお目にかかった記憶が鮮明にはなく、むしろ、十五年くらい前に百観音の万燈会でご挨拶したことを覚えています。毎年七月末にインドネシアのガムランとジャワ舞踊の奉納を行っています。
その後、子供が病気をしたとき、万燈会にお伺いして観音護摩のお札を頂戴しました。おかげさまで子供はすっかり元気になりました。今年はお目にかかれるのかなあと思いましたが。
草野師はむしろ、鈴木永城師が理事長を務める仏教情報センターの事務局長として知られているかもしれません。仏教テレフォン相談として檀信徒の意識と僧侶の建前の間を取り持つ相談を受けていました。
その十万件の中身をまとめて「寺と僧への世間の期待と批判・苦情」 <葬儀・戒名編>を国書刊行会から平成十三年に刊行されています。大変優れた労作です。「大法輪」にもしばしば寄稿されていましたが、まとまったものは出されてなかったと思うので、これは残された我々の宿題です。
師の特筆すべき持ち味は、難しいことを平明に、身近な喩え話を用いて語る才能です。これはインド以来、僧侶の身につけるべき技芸ですが。
万燈会の表白でも普通の口語の日本語でその趣旨を述べて観音様に申し上げていました。口語なら漢文混じりより易しいかというと、かえってどう書いていいか分からず難しいと思います。ヘタなのはそのままばれてしまいますし。 
密教についても「大法輪」の平成十四年七月号に、密教はなぜ秘密なのかという問題で、次のように書かれています。ちょっと長いですが引用させていただきます。

ある学生が小学校の頃に不登校になったときのことを語ってくれました。彼女は、学校へ行けなくなってつらい状態が続き、毎日苦しんでいました。けれどもある朝、庭を眺めていると、そこに一輪の赤い薔薇が咲いていたそうです。それをじっと見ているうちに、ふと「わたしはひとりじゃないんだと思った」というです。そうしたら気持ちがすーっと楽になって、それから学校へ行けるようになっていたんです、という話でした。
中略。
赤い花は誰もが見ることができたはずです。でも、そのメッセージはその時の彼女だけに伝えられました。
密教でいう秘密というのも、決してカバーか何かで被われているのではないんですね。メッセージを受け取る能力のある人には、ありありと顕れているものなのです。でも、受け取る側の都合であたかも秘められているかのように見える。それが、ここでいう秘密ということなんですね。

わたしなんかは言葉を省いてしまうタイプですが、師はじゅんじゅんと分かりやすく説き明かすという方で、得難い人材でした。
延命寺の観音堂には護摩壇がありましたが、ずっと不動護摩を焚いてました。三年くらい前から自己流で観音護摩に切り替えたのですが、今度お目にかかったらその話をお聞きしようと思っていたのに残念です。
観音様については、去年の九月にいただいたメールに次のように書かれていました。寺報に連経や法華経の語り、唄入り観音経などについて書いたことのご返事としていただきました。手術後に退院された時点で書かれたものだと思います。

病院のベッドの中で、時々観音経を読んでみました。うれしかった。あれほど救いのストーリーに満ちているということは、ともかく落ち着くのです。当時の人々もそうだったと思うのですが、もっとも欲していたのは救われるための論証でも何でもなく、誰だって救われるというイメージなのであり、それが表現豊かに語られれば、人々は幸福であったに違いないと思いました。
 
夏休み前に子供たちのおぞましい事件が続いています。師だったら、ああそうかというコメントをされたと思います。わたしが言えるのは、最近の子にはスーパーエゴがなくなったのかなあということです。
少女たちが親の束縛を離れて渋谷に行って怪しげなバイトをしてお金を好きに使う、何でも自分の好きなように出来るというのは、とても小さな孤独な営みです。
それより、もっと大きな存在に支えられて生かされている、自分だけじゃないと気づくことの方がどれだけ幸せか。
ぶん殴る先生、怖い父親、その父をしかる祖母の一言とか、そのまた祖母の信仰する観音様とか、浅はかな自分を厳しくたしなめてくれる存在が必要です。いざというときは支えられているという安心感。母親にべったりしてペット化しているのもよくありません。
近頃の子供はゲームのやりすぎなのかどうか分かりませんが、自分自身で世界を作り替えられる、リセットできる、創造破壊を司る裏庭の主宰神であるかのような錯覚を得ているのかもしれません。
物陰でごちょごちょっと悪さをします。それが猫をいじめるくらいではすまなくなってしまうのですね。思春期に性エネルギーが暴発してギャング化することは、決して珍しくはないのですが。
そういうとき、どこかで一度止めて、ガツンと怒られることがとても大切なようです。自分をしっかり見てくれている人がいる、あるいは見えないけれど神仏が見守っているという感覚。昔の人はお天道様が見ているといったものです。お天道様って大日如来ですか。
また、師は大法輪誌上で祈祷について次のように書かれています。

我が功徳の力、つまり仏を拝み三密を行じる功徳の力と、如来が差し向けた加持の力と、宇宙万物に宿る法界の力とがひとつに出合うところに、仏と衆生が相互に供養しあい、互いにいのちを高めあう世界が成就する、  以下略。
 
また、合掌する姿が人間の見せる最も美しい姿であると述べられ、祈願とはその美しい姿を仏に供養すること、そしてそれは合掌のように両手でもって共に支え合う姿で、単なる自力でも他力でもないとおっしゃってます。そして、あとは仏の慈悲のはからいにお任せすればよいのですと。
安らかに眠られたのではないかと思います。
観音浄土の補陀洛山、ポータラカに赴いたのでしょう。一説ではわたしの好きな南インドのマラヤ山中にあるといいます。とてもいいところです。
一度行ってみてください。
昔の僧侶は那智から小舟でわずかな食料だけ持って大海原に乗り出し、補陀洛渡海を志したと聞きます。
行ってらっしゃい。洋上からメールください。
 ナモー・アストゥ・テー。

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