インド美術のもう一つの見方/仏像は踊る

大正大学非常勤講師 河野亮仙

問題の所在  
従来、インド美術については、様式論で語られることが多かった。それは、東南アジアのインド化された国々の諸美術においても同様であった。様式論によってその伝播の過程や年代が、ある程度、推定できる。  
一方、インド美術の造形を見て、そこで何が踊られていたかということを考えるてみると、文献には記されない新たな事実が浮かびあがる。

グブタ様式の背景  
まず、多様性の国インドに統一性を与えたインド文化とは、基本的に三世紀に西インドを中心にインドを統一したグブタ朝の時代のサンスクリット文化である。この時代にインド文化の基礎が築かれた。後のヒンドゥー王朝は、北インドも南インドも、基本的にこの路線を踏襲する。  
サンスクリット語が公用語となり、学術、文芸が栄える。インドの二大叙事詩の『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』、それに続いてプラーナ文献が撰述される。暦や、天文学、医薬術なども発展し、『マヌ法典』などの慣習法が採用され、カースト的な社会が形成されてゆく。国内外での商業も活発となり、それに伴って文物の往来も多種多様となる。  
また、インド的な宇宙観を背景に、王を神と見るデーヴァラージャ信仰がインドのみならず、東南アジアにも浸透してゆく。王宮、乃至、王族の寺院は天界の写しであって、天界で天女が舞って神仏を供養するように、地上では舞姫が王をもてなす。その模様が彫刻に示されている。王族・士族(クシャトリア)はまた、芸術・文化の保護者、実践者でもあり、詩歌管弦の名人を輩出している。

トリバンガのポーズ  
インドに残る最初期の神像は、周知のようにヤクシー、ヤクシニーと呼ばれる樹木の精霊の像である。木にしなだれかかって一体となったような姿で造形される。釈迦像は、初めのうちは、造像されることなく、その存在はシンボルで表されるのみであった。  
一、二世紀になると、西北インドのガンダーラで、つづいて、中インドのマトゥラーで釈迦像が造像されるようになる。南インドのアマラーヴァティーの仏像、その様式も、早くから海外にもたらされている。  グブタ期(四、五世紀)そして、それに続く後グブタ期(六〜九世紀)というのが、美術史上では、特に重要である。インドネシアのボロブドゥールの遺跡群などが典型だが、後グブタ期のサルナート様式(衣の襞の線を省略するスタイル)の優品が、中部ジャワ、タイ、チャンパ、クメールから発見されている。  
特に、インドネシアで発掘されたものは、国立博物館の「古代インドネシア王国の至宝展」で公開された般若波羅蜜多像を始め、インド本国のものを凌ぐほどの技のさえ、日本人にも受け入れやすい優しさ、まろやかさを持つことで知られる。  
次いで、パーラ朝(八〜十二世紀)の時代になると、仏教、特に密教を保護したことで知られ、パーラ様式の青銅仏が造像されるようになる。  
さて、最初期のヤクシー像に戻ると、これはいわゆるトリバンガ、すなわち、首と胸と腰をくねらせたポーズの代表例としてよく知られている。インド舞踊でいうと、オリッシー・ダンスなど、今日の東インドの舞踊の特徴を示すが、アジャンタ、エローラの石窟寺院においても同様の傾向を示す。東南アジア各地の図像にも、見受けられる。  
特に、チャンパ国(今日のベトナム中・南部)の踊るシヴァ神ナタラージャ像の身体のバランスは、オリッシー・ダンスそのものだ。  仏教寺院に踊り子がいるというと奇異に感じるかもしれないが、図像の示すとおりであり、カンボジアのタ・プローム寺院の碑文(十二世紀末)には、女の踊り子が六一五人所属していたことが知られる。アンコール・ワットの建立者スーリヤヴァルマン二世のプレア・ビヘール碑文によると、毎日お寺で必要なものは、第一に踊り子、歌手、楽隊、道化師、米、油、香華等をあげている。  
東南アジアのインド化された国々の宮廷文化とはインド文化のコピーであり、インド本国でも北インドのみならず、南インドのパッラヴァ朝もそれに習うなど、事情は、同様だった。
七世紀中頃には、義淨がシュリーヴィジャヤと目される仏誓国(ジャワ、スマトラあたり)に寄港し、インドを志すものは、まず、ここを訪れて、仏教や梵語、法式などを学んでゆくとよいと記している。八世紀初めには、金剛智がスリランカ、仏誓国を経て、広州に入港している。かつて、達磨禅師も南インドから、海路で広州に至るなど、人物、文物の交流はかなり盛んである。  
インドネシアの学者は認めないだろうが、ボロブドゥールやプランバナンで制作された優品の多くはインド人の棟梁自身の手によるものではないか。もちろん、遺構を造営したのも、少なからずのインド人棟梁の参加によって、可能になったと思われる。僧侶も超大物が渡航しているので、彫刻その他の芸術家もトップの人をインドから招いたとしても不思議はない。  
それだけではない。知識階級たるバラモンのみならず、様々なジャンルの専門家、職人、武人、言及されることはないが、料理人や踊り子も含まれていて、インドの宮廷文化そのままの移植を試みたに違いない。  
そして、そのインド文化は宮廷の周辺にのみあって、一般大衆に届くまでは時間もかかり、その間に文化も変容する。カンボジアにおいてサールナート様式の色濃い彫刻が、時代とともにクメール的な顔を見せるように。

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