延命寺 寺とパソコン~番外編~
(4) パソコンを仏教に使うために
お寺にパソコンはいるか
パソコンブームは終わったが、今度はいやでもパソコンを使わなければならない時代がくる。もちろんパソコンが使えなくても人格的に問題がある訳でないのは、留守番電話やビデオのセットができなくても人間として劣る訳でないのと同様である。ただお寺にはコピー機やFAXが必要になるというのと同じ意味でパソコンが必要になるというのである。しかし、現在のパソコンをまとめて言うと「過剰性能低機能」ということになる。ゲームなどに関してはそこまでできなくてもと思うくらいの性能がありながら漢字に関しては般若心経すらまともに書けない。
パソコンに振り回されない知恵
さて、パソコンの得意なことはデータの使い回し。住所録などを一度打ちこめば時々修 正するだけで長く使える。毎年のお知らせも日時を変更するだけで何回も使える。苦手なのは新しいことをすること。パソコンに向かえば新しいアイデアが次々にうかんでくる、ということは決してない。法話集を出版するときにデータを入れてあれば多少の修正を加えればまとめるのも早い。しかし新しい法話をするときに、まずパソコンに向かっても何も始まらない。思いついたことはパソコンのスイッチを入れて書き込むよりも手近なメモ用紙に書いたほうが早い。
買うなワープロ捨てるなワープロ
私は新たにワープロ専用機を買う必要はないと思う。毎年のように郵便番号・電話番号が変わるのにワープロ専用機では本体を買い替えなければ対応できない(もっともパソコンでも肥大化するソフトに追いつくには毎年買い替えることになりかねないが)。しかし
持っているものを捨てることはない。
一つの使い道は原稿作成機としての道。機能がてんこ盛りでない分それだけ起動が速い。作った原稿をDOS変換すればパソコンで読み込んでレイアウトするのも電子メールソフ
トに読み込むのも簡単である。
もう一つの道は長尺印刷。お寺の法要などでは長尺の用紙に法要の式次第や担当を書いて張り出すことがある。最初から紙に書くと、書き損じた時は書き直しか紙を貼って訂正ということになる。急用が出来て来られなくなった人が出た時も困る。ここにワープロの出番がある。原稿をワープロ専用機で作り、印刷をFAX用ロール紙にすると長尺の印刷が簡単に出来る。
これをパソコンでしようとすると、まず長尺のレイアウトが出来るソフトとプリンター、もちろん長尺の用紙も必要になる。そんなものはすぐには手に入らない。何年かに一回の法要のためにそんなものをそろえるのも出費である。用紙設定をきちんとしないと印刷を受け付けないソフトもある。パソコンFAXを使うにしても普段使い慣れていないとすぐにはやり方が思いつかない。法要のあるお寺にFAXがなかったり普通紙FAXならお手上げである。
パソコンにプリンター(またはFAX機)という組み合わせより、ワープロ専用機にFAXロール紙という組み合わせの方がお寺向きという場合もあったのだ。いくら軽いパソコン軽いプリンターでも印刷機能付きのワープロ専用機にはかなわない。
パソコンの買い時は
パソコンは次々に新しい機種がもっと安く出るから、いつ買えばいいのか分からないという声がある。正解はウィンドウズ対応の機種は西暦2000年3月1日以降、マックはデス
クトップとパワーブックにFireWireが標準装備になって対応機器がそろった時。
なぜか。まず、西暦2000年問題とは00年問題だけではなく「閏年問題」でもあること。 閏年は四年に一度と思うのは間違い。百で割り切れる年は閏年ではない、と言うのが第一の例外(つまり1900年は閏年ではない)。そして百で割り切れても四百で割り切れる年は閏年というのが第二の例外(2000年は閏年)。結局2000年三月一日以降に買えば00年問題も閏年問題も過去の話になっている(自分史を書くときなどは困るけど)。
朝日新聞の天声人語やウィークエンド経済では、ある会社は皇紀を使って西暦2000年問題を解決している、と書いていたけれど、皇紀では00年問題は解決できても閏年問題の解
決は余計ややこしくなるはず。
マックの場合は年の数え方の基準を1900年に置くのではなく、特定の年から何時間何分何秒たったかというふうにしているらしいから、西暦2000年問題は関係ないそうだが、別の問題は対応機器。ウィンドウズでもUSB機器の動作保証はウィンドウズ98かららしいが、今のマックはSCSIがあったりなかったり。すべてにSCSIが付いていたときはパワーブックとデスクトップをSCSI接続してデータを移すことが簡単にできたが、いまのiMacに安心してつなげられるSCSIはなさそうだ。新パワーブックG3にはSCSIはあるが、FireWireはない。新G3マックにはFireWireはあるが、SCSIはボードを組み込まなければならない。
USBでは遅いというし、FireWireの標準装備を待つのが正解というわけだ。
でも買わなければならない人は型落ち品を安く買うのも賢いのである。文章入力に限定すればパソコンは長く使うことが出来る。
パソコンの不幸な逆説
私はパソコン初心者はマックから始めるに限ると主張しているが、展示品の数からウィンドウズの使えるパソコンを最初に買ってしまう人が後を絶たない。そしてパソコン雑誌も、最初からソフトがたくさんあるものを、とかみんなが使っているものを、とか言っている。しかしウィンドウズはソフトをいろいろ試用してみて選ぶという設計にはなっていない。試用ソフトを削除してもごみデータの削除はできないし、ソフトの削除に失敗することも多い。
ウィンドウズはいろいろソフトを組みこむとか、ゲームをあれこれ試してみるというのは御法度なのである。ところがワープロにしてもゲームにしても対応ソフトがあきれるほど多い。マックでもソフトの組み合わせによっては不具合が出るが、これは対策が簡単である。ところがソフトの選択肢は多くない。ウィンドウズの設計の上からは一つか二つのソフトだけ使い、ゲームなどはしないというのが正しい使い方であり、マックはいろいろソフトを試してみるというのが正しいのだが、ちょうど正反対の発展をしてしまった。
またウィンドウズ対応ソフトはどちらかと言えば文章を作ることを主眼にして発達した が、肝心の日本語入力のオンオフの仕方がばらばらである。キーボード上の記号と出てくる文字が違うパソコンが売られているなどとは信じられない。マックは印刷することを主眼にして発達した(以前は単語登録しないと「うぃんどうず」は「ウィンド渦」と変換した)が、日本語入力のオンオフは非常に分かりやすい。これも逆の発展をしてしまったと言える。
万能ソフトはない
だからパソコンを選ぶ時はみんなが使っているからなどという観点で選ぶべきではない。大事なのは寺で使えるか、自分が使いこなせるか、である。その点では寺の仕事が過不足なくできるパソコンソフトはない。だからマックかウィンドウズかではなく「マックもウィンドウズも(そしてビートロンも)」ということになる。寺の仕事を抜きにすればどのパソコンソフトでも程々に役に立つ(OS/2でもMSXでもタウンズでも)。
まずマックとウィンドウズに共通する欠点はメモリー管理が下手なこと。かなり不正確なたとえになるが、たとえばメモリーが1~10まであるとしよう。あるソフトを起動させてメモリーの1から4まで使い、次のソフトが5から8まで使っているときに三番目のソフトにメモリーを4与えるために最初のソフトを終了させてもメモリー不足という警告が出る。
なぜか。空きメモリーは続いていないと使えない。再起動させて二番目と三番目のソフトを使うというのが正解。もちろんメモリーの空きを配置換えして続けるソフトはあるが基本的には再起動。
マックの欠点はウィンドウを閉じてもソフトは待機しているだけで終了はしていない。 OS8まではそれが分かりにくかった。画面の右上にマウスを持っていってクリックすれば分かるが、そんなことをいちいちやっておれない。
ウィンドウズの欠点はソフトの削除が難しいこと。「そんな馬鹿な。ウィンドウズ95からはアプリケーションの追加と削除で安全に削除できる。」という人は試しに「G.Crew」
(メッツ)と「パーソナル編集長」(バックス)を組み込んで「G.Crew」を削除してみて欲しい。なぜか「パーソナル編集長」が削除される。もっと一般的にはdllファイルとレジストりーの問題。ソフトを削除してもdllファイルは他のソフトが使用しているかもしれないから原則削除しない方がよい。そしてソフトが削除されて無いという情報が残ったままになる。「空」という情報は「有」なのだ。
また、せっかく般若心経を漢字で書くことの出来るビートロンも縦書きが出来ない。横書きの般若心経なんて縦書きのデーバナーガリーよりはましという程度。
もちろん苦手を軽減するソフトもあるし、どれか一つだけで悪戦苦闘するのもかまわない(たとえば般若心経を般波・・・観と書けばいい)が、三つそろえた方が何かと便利。自分が使いやすいもので、八割か九割の仕事をして、苦手な事は他のソフトでやればよい。
これは基本ソフトの例だが、アプリケーションソフトの場合も同じである。
残るのは紙とテキスト文書
たとえ同じ会社の同じソフトを使っていても古いバージョンを使っている人は新しいバージョンで作った文書を開けない。「(ほとんど使わない)ソフトが付いてぽっきり何万円
」などとテレビショッピングではあるまいに、オフィスソフトの新しいものが出る度に買い改めていてはハードディスクと財布が持たない。もちろんソフトを買い足さなくても変換ソフトを買えばいいだけだが、もっと確実なのは「保存はテキスト形式で」ということ。テキスト形式の文書が読み込めないワープロソフトが登場する可能性はない。テキスト
形式の文書ならウィンドウズやマックだけでなく懐かしいMSXパソコンでもワープロ専用機でも「すごい。ハードディスクの容量が100メガもある」という時代のNEC98パソコンでも作成できる(私は98は使ったことがないので比喩が不適切なら謝ります)。
では見出しと本文では文字の大きさを変えたような文書はどうして保存するか。これは 印刷した紙を取っておくのがいい。適切な紙とインクを選べば長く保存させることが出来るが、ハードディスクが壊れたらデータ取り出しはかなり困難。まだ紙に勝る保存用具は発明されていない。
詳しい人からはテキスト形式でもマックとウィンドウズとユニックスでは改行コードが違う、酸性紙の問題は、と異議が出るだろうがそのことを考えに入れても紙とテキスト形式に勝るものはない。
仕事はDOSだ
僧侶と言ってもパソコンが苦手だとは限らない。というより早くからパソコンをばりばり使いこなしていた人も多い。しばらくぶりに会ったあるお寺さんは「DOSの快適さ」を語ってくれた。世間ではウィンドウズ2000の出るのは2001年だろうというのが専らのうわさであるのにDOSとは時代遅れな、などと思っては大間違い。ウィンドウズにしろマック
にしろOSが起動するのにかなり待たされる。私はパソコンを起動させてから用足しに行ったりお茶を入れに行ったりしているが、ペンティアムマシンでDOSで一太郎を起動させれば十数秒ですぐ仕事にかかれる、ということだそうだ。しかも縦書きOK、ほとんどキーボードだけで快適に操作できる。ウィンドウズも入れているが使うのは専らDOSということだった。
私は仏教語が使いやすいし起動も速いということでBTRON(ビートロン)を勧めているが、なるほど専門用語を作っておくか、ウィンドウズで一太郎オフィス8以降を使って読み込むようにすればかなりの漢字が使える。ウィンドウズでもマックでも原稿を作るにはワープロではなくエディターを使うのが便利だが、OS自体の起動が遅ければいくら速いエディターでも出番がなかなか回ってこない。IBMのPCDOS2000という製品もあるし、PC-UNIXに挑戦しているよりもDOSソフトの使い方を学んだほうが効率的かもしれない。