インド美術のもう一つの見方/仏像は踊る

大正大学非常勤講師 河野亮仙

蓮華手は舞踊の始まり  
現代作家の抽象的な彫刻と違って、昔の作品は具象的である。もちろん、飛天は想像上の姿ではあるが、基本的には、菩提樹の礼拝、仏塔崇拝など、現実に行われていた礼拝の模様が描かれていると考えられる。  
ガンダーラの彫刻では、次第に献花する群像などが描かれるようになる。蓮華を手に持つ像も、すでに、三世紀頃のガンダーラ彫刻に見られる。施無畏印、定印、転法輪なども見られるのは、周知のごとくだ。このように印相を用いるというアイデアもまた、インド舞踊に取り入れられている。  
グブタ期以降のアジャンタやエローラの神像、あるいは、踊り子像で特徴的なのは、手に蓮の花を持って身体を傾げ、足も曲げていることだ。歩きだそうとしている。神仏に花を手向ける姿と見える。これはまた、先程述べたトリバンガのポーズである。重心を左足に置き、右足を曲げ、身体を傾けて、その反対側に首を傾げる形だ。  
密教的なターラー像は六世紀にサールナートで初めて現れるが、オーランガバードの仏教窟には、天女とともにその存在が目立っている。エローラの石窟寺院には、第四窟にターラー菩薩像が作られる。また、第七窟には蓮華手女菩薩が認められる。第十三窟には三鈷を持つ金剛手菩薩も見えるなど、次第に密教的色彩を強める。  
同じ、トリバンガでも、初期のヤクシー像などは、樹木に寄りかかるような静止的なポーズだが、グブタ期に入ると、練って歩くようなバランスで描かれる。中部ジャワ・ボロブドゥール等の彫刻においても同様で、図像の多くはインド舞踊的なポーズを見せて、ジャワ舞踊的なポーズを示すのは例外的である。  
図像から判断する限りは、このように、手に花や供物などを持って、歩むとともに右に左に身体を傾げ、神仏に捧げようとする行進・行列する姿が「インド舞踊」の始まりと思われる。このような素朴な「インド舞踊」は、今日行われていないが、バリ島の祭礼ウパチャラでは村の女が、手に手に花や、香や酒を持って神仏に捧げる舞いルジャンをどの村でも行っているのが、その精神として近い。ちなみに、香華等を供養するヒンドゥーの十六ウパチャーラ(供養法)は、十八道次第の基本となっている。  
例えばここで、実物ではなくて、理念的に、蓮を(手で)拵えて捧げますよ「オーム、パドマ、ウドバヴァーヤ、スヴァーハー」と言葉で唱え、さらに、手を合わせて蓮の華を示すような仕草で表されるとすると、今日伝わる真言・印相と大差なく、インド舞踊も修法も同じところに起源することになる。  
また、文献の方からいうとインドの芸能書「ナーティヤ・シャーストラ」の重要部分が書かれたのがグブタ期と考えられる。その最終的な成立は、八世紀を過ぎるであろう。ヒンドゥー教の図像学のテキストである「ヴィシュヌ・ダルモーッタラ・プラーナ」は、九世紀頃の成立とされるが、「ナーティヤ・シャーストラ」のラサ(美的陶酔)の理論を前提として、音楽・舞踊・演劇の知識なしには絵画・彫刻を理解しえないとする。

密教尊は踊り出す  
パーラ朝美術の影響を受けたネパールやチベット密教の尊像は、しばしば、多面多臂で威嚇的、躍動的な姿を見せる。密教時代になると尊像は、踊り出す。「ナーティヤ・シャーストラ」には、シヴァ神がターンダヴァという男性的な力強い足踏みのダンスで世界を創造したと書かれるが、『ニシュパンナヨーガーヴァリー』には、ヴァジラダラ(持金剛)がターンダヴァを踊り、九種のラサを表していることが述べられる。  
多面多臂の尊像の姿の図像的なアイディアは、シヴァ神の踊る姿ナタラージャに求められよう。ハレービードのホイサレーシュヴァラ寺院にある十六臂のシヴァ像(十三世紀頃)は、金剛、ダマル太鼓、カドヴァーンガ丈、鈴、弓、頭蓋骨を持ち、ヘールカ神などに図像的な影響を与える。  尊像は、突然、踊り出すのではなく、金剛界曼荼羅の尊像も、実は、坐りながら踊っている。杉浦康平の指摘によると、東方の阿如来に始まり、南方・宝生如来、西方・阿弥陀如来、北方・不空成就如来、中央・大日如来へと右回りに、諸仏の印相が、触地印、与願印、定印、施無畏印、智拳印にと変化して、四仏のすべての機能が大日如来に統合されるという。  
ダイアグラムで示すと、五仏は、印を結び変えつつ、右手と左手が流れるように変化し、静寂のなかで踊っているという。また、一つの真言に対して一つの印相という中期密教的な特徴もこの図像は示す。コマ送りのように、静止した姿が連続的に繋がっている。後期密教の時代になると、ネパールやチベット、バリの僧侶の修法に見るように、連続的に印相を結んで、手踊りを見ているかのようである。
密教の阿闍梨は、学術や図像学のみならず、関連する音楽、舞踊にも通じるべきだとされる。日本においても、毛越寺、輪王寺などでは僧侶自身が舞い踊る延年の芸能が伝えられる。古くは、東大寺の大仏開眼式に参加したインド人僧侶の仏哲が悉曇・声明のみならず、林邑楽をもたらしたとされる。  
チベットの僧侶は、見事な砂曼陀羅を描き、仮面舞踊を踊る。大正大学で研究会を行ったこともあるが、ネパールの金剛乗の僧侶ヴァジラーチャーリヤは、悟りを表現する踊りを踊る。密教尊のポーズを次々に決めながら踊る、いわば「踊る仏像」であるが、基本的な舞踊のポーズは、東インド的であり、パーラ朝文化の影響下にあるものと思われる。  
イスラーム教徒の侵攻にともなって、ネパールに逃げ出した密教徒の伝えた伝統であろう。今日のヴァジラヤーナ・ダンス(チャリヤー・ヌリティヤ)そのものではないまでも、かつて、ナーランダー寺院やヴィクラマシラー寺院で何らかの宗教的な舞踊が踊られていた可能性がある。あるいは、実際に踊る姿を見ないと、あのようにダイナミックな仏像を造形することはできない。  
多面多臂の尊像の姿の図像的なアイディアは、シヴァ神の踊る姿ナタラージャに求められよう。ハレービードのホイサレーシュヴァラ寺院にある十六臂のシヴァ像(十三世紀頃)は、金剛、ダマル太鼓、カドヴァーンガ丈、鈴、弓、頭蓋骨を持ち、ヘールカ神などに図像的な影響を与える。

 

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